進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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97艦攻
2024.06.06
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もうブログを書かなくなって久しい。とある出版社から貴塾のブログを何かの形で出版したいなんていう話もあったっけ....教材にしたいという会社には「イイですよ」とこころよく無償で国語教材に使ってもらったこともある。
まあ どうでもよいが....私もとっくに60を過ぎた。昔で言ったらとっくに老人だ。
老人も夢を見る....。
それは平和な日本だ。子孫が繫栄できる日本。
今の世とは何かが違う......私が願うのは「祖先に感謝する」日本だ。言い換えれば今の日本の繁栄は明治以来の日本の努力と犠牲の上に成り立っていることを忘れて欲しくないのである。その犠牲とは己の命を捧げてもわが子・孫...ひいては日本の平和と繁栄を祈る「愛」であったと私は思う。
伯父は海軍航空隊だった。そう旧軍の......ここで思考停止しないで頂きたい。あの大戦のことを何も考えないのがエリート日本人のあるべき姿であり、ひたすら平和平和...と連呼するのが正しいと本能的に考える前に感じるなら。それはどこかの国が 何かを確実にするために日本人の脳にplantした精神のvaccineである。
伯父は練習航空隊から最前線へ出ると乗機は97艦攻であった。これはのちに天山艦攻に改修..upversionされるが、米軍も驚く高性能の艦上攻撃機だった。艦攻は水平爆撃と低空に舞い降り海面すれすれに飛行して敵艦に魚雷を打ち込む攻撃機である。すべて、ミサイルで片づける今の航空攻撃とはまるで違う。
終戦時に米軍は日本機の性能を研究するため残存する機体に米軍のハイオクタン燃料を入れて飛行試験を実行したが、97艦攻・天山艦攻の優速とその性能に驚いたそうである。
千葉県の南端にあった「海軍館山航空隊」に伯父は終戦までいた。あの硫黄島が陥落して米軍の手に落ちてからも伯父は97艦攻に乗り硫黄島の偵察に日々飛んでいた。
97・天山..艦攻は3座である。
3座とは「パイロット(操縦員)・navigater(航法員)・通信員」の3名がそれぞれの責務を担って飛ぶことを言う。
祖母の弟にあたる大叔父もイ号潜水艦の通信士官だった。
だから平時の今になって...
私.....西川一喜は陸上「アマチュア無線3級」と「海上特殊無線2級」を....本能的に受験して取った。
血のなせる業(わざ)なのか。