進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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沖縄慰霊の日
2022.06.23
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沖縄には太平洋戦争の終戦の日が2つある。
私自身、実際に沖縄に行き戦跡を訪ね、あまたの米軍基地を見るまでは実感がなかった。
誠に沖縄県民の方々に申し訳ないことだが、本土(内地)の人間にはあくまで終戦は8月15日なのだ。
アタマのなかの記憶では6月23日を知っていたがその情報が我が身のこととして生きていなかった。
沖縄はご存じのように先の大戦(かつては大東亜戦争と言った)の激戦地だ。しかしそれは内地のものとは根本的に異なる。
内地の戦争とは私の父母、祖父母、伯父叔母が防空壕や避難場所を目指して必死に生を求めた空襲だった。東京では犬や猫まで艦載機の機銃掃射されたけれど沖縄とは違った。
それは日本の主権の及ぶ国土で唯一「地上戦」が行われたことだ。
言葉は残酷だ...一言で「地上戦」というのは簡単だが、実際の戦闘は上陸に先立って米軍は海軍艦艇の猛烈な艦砲射撃を徹底的に...まるで数学のように地図を方眼に区画した「グリッド」によって表記し計画的な絨毯艦砲射撃を加えた。
空母はその艦載機すべてを発艦させてわずかに残った日本陸海軍機を撃墜、上空を制圧した。沖縄には制空権(Air-Cover)がまったくない中で血を血で洗う地上戦になったのだった。
狭い沖縄本島の中での民間人の避難。それはは4月から梅雨に入る現地でのご苦労が偲ばれる。避難する県民の安全のために沖縄県庁が空爆により機能消失した後、当時の県知事は一人になっても先頭に立って民間人の避難に全力を尽くしていたことを申し添えたい。
そして6月23日には沖縄守備隊の日本軍の組織的抵抗がなくなった日となる。
直截にいうなら守備軍の司令官と幕僚が全員戦死か自決した...その日だ。
内地(本土)の我々には想像もつかない被害を沖縄は出している。当時の県民の4分の1...その25%が戦火に巻き込まれて命を失った。
数字で言うなら簡単だ。
自分の親、兄弟、親戚、友人がその中にいたらどうするのか....?
沖縄のいたみ....は永遠に内地の人間には理解されないだろう。それはここにある。
いまも沖縄本島の南部をさらに海に向かうと摩文仁の丘がある。
ここには沖縄戦で命を失った日米のすべての確認できた人間の名前が日本語と英語でmonumentに刻まれている。
歴史的考察なんてどうでもいいから...日本人なら一度行って、その断崖まで追い詰められた人間の気持ちを考えていただきたい。
それは沖縄の人たちの復興「心」に近づく第一歩だ。
以下は言わなければいいのに...という一言。
だから沖縄には政府から多額の復興補助金を支給されているのでは...なんていう思いがほんの一瞬でも浮かぶなら永遠にあなたは沖縄を理解できないだろう。悲しいが内地の日本人の限界でもある。
観光スポットだけめぐって、紅芋タルトを土産に買って帰るうちは何もわからない。