進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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My respectful uncles..especially Uncle T
2022.05.22
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私の尊敬すべき伯父たち
どの伯父・叔父にも世話になったと心から感謝。
でも最も自分が影響を受けたのは西川の2番目の伯父だったと思う。伯父は男3人女2人の子供たちのなかで一番「実利的な勉強」をした人だった。
もともとは商業の専門高校を出ているから会計学が進むはずの道だったが、戦時中は三菱商事に入社。中華民国青島に駐在していて軍が必要とする軍需物資を現地で購入する仕事をしていた。
大陸に進駐している旧日本陸軍のために働いているわけだから、当然現地にあっては国民党軍や民間人に変装したスパイ(便衣隊).....奥地に進めば共産系の八路軍(パーロ)にいつも命を狙われたそうである。なんとかコーリャン畑に逃げ込んだときに機関銃の掃射を受け飛んでくる銃弾が耳元をかすめて「ヒューン ヒューン」と音を立てて着弾したときにはもう命はない...と思ったと言っていた。
午前2時に起きて明け方に沖に出るので続きは後程....to be continued(続く)
駿河湾の淡島沖でアジ釣りを頑張るも午前11時から雨。急いで帰港。先ほど自宅へ戻ったところ....無事で陸に戻ることが第一で釣れたかどうかはオマケと考える。
閉話休題
伯父は終戦後帰国してからも三菱商事へ勤めるうちに、何のきっかけがあったのか「電気・無線」に興味を持ちまだ教材も満足にないあの時代に自学で電気工事士・無線技士の資格を取った。
その後は独立し西川電器を開業。日本の高度成長期と時代がmatchし大いに会社は伸長した。伯父のエライところはその利益を自分の勉強にもドンドン投資したことだったと思う。
伯父が次に目指したのは自家用固定翼飛行機(セスナ機)の飛行免許だった。
実際の伯父は国内の民間飛行学校に入り多額の(?)授業料と数年間の時間をつぎ込んで見事飛行免許を取得した。
その後伯父が趣味と実益を兼ねて飛んでいた航路は「調布飛行場⇔清水飛行場⇔伊豆大島空港」だった。だから私は今でも伯父を偲んで清水に行くたびに清水飛行場の滑走路に一人立ち...50年も前にここから大島へ離陸していった伯父の機を思い出す。
ニシカワの伯父たちの中でもこのT伯父さんはすべて「理ぜめ」で計算が早く正確だった。伯父の目には私がひ弱で頼りない甥に見えたのだろう。
「一喜、お前は情に流されて損をする人間だ...気をつけろ。。誰も助けてはくれないゾ」
伯父は晩年すべてから身をひいて、長野の美ヶ原の麓に家を建てて移り住んだ。
真冬にはマイナス20°にもなる寒冷の地だ。
「オレはね....ピーンと張りつめた空気のこの土地が好きなんだ」
伯父はそう言いながらも地域の別荘や老人世帯の家電修理や電気工事をやり、大いにありがたがられていた。
伯父の考えで絶対に「修理費・技術料」は取らなかった。請求は部品代のみ。
だから、伯父の家にはその代わりの感謝のリンゴとかシイタケ...朝鮮人参がいつも山積みになっていた。
T伯父からは多くを学んだ。実に多くを。以下はその数年間の集大成。
「自分が文系だとか理系だとか言って自分を枠にはめないこと。
クルマ・バイク・家電は部品を注文して自分で修理。メーカーに送ってもすぐ他がダメ。
小さなこと大きなこと..何事もあきらめない。オマエ、損をしていいのか!
いつも新しい何かを勉強すべし。これでいいと思った瞬間に自分は止まる。
どこにも「馬が合わない」ヤツがいる。尊敬と敬遠に努めるべし....」
父が早くにいなくなった私は伯父から多くを学びたくて片道6時間をかけて...長野まで通った。そのくらい自分にとって「どう生きたらいいのか?」を考えるのは切実な問題だったのだ。
逆に言うなら、日ごろ、何の意味もないように思われる父親は子供に身をもって「どう生きるか」を示すことが神から与えられた役割なのかもしれない。
だから、不幸にして...或いは運命的に父親がいない子は苦しみながら...その思いを母親にも言えずに....母の労苦を思えば口に出せない。
でも自分だって人間なんだから....特に男なら必死に探すことだろう。
長野の伯父はヘンに情にもろくもなく適切に自分を鍛えてくれたと感謝している。
伯父に学んだ最大のことは....諦めないこと。
人間は弱い。自分が大切だ。だから理由や説明をして自分を正当化する。
何かを諦めたことさえ。
「後悔したくないなら 思いつくすべてをやってみろ! 泣き言は言うな」
ありがとう....伯父さん。
海抜2000mの高原には夏に乳牛が放牧される。身も心もpurifyされる。
また行きたい....梅雨に入る前に行こうかな。