進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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飛行機の「スベリ」
2021.05.12
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スベリとかスリップはクルマの雨・雪・凍結路だけではない。
水上のフネもガーッと着岸点をめざして直進して行き、数十メートル手前でその時の風と潮の流れを読んで舵を切り、微速前進で細かく針路を調整しながら着岸するが、この時には海面をスッーと音もなく流れて滑って行く。
これが飛行機にもあることをご存じだろうか?
意外だが、フネと飛行機は似ている。同じ流体力学の応用の上に成り立っている。対抗してぶつかるのが水か空気かの違いだ。
海は針路を決めて目的地へ進んでも海図の上の図上演習の様には行かない。対抗潮流があったり向かい風だったりする。風が強ければ風上から波が来るからこれに対しても30~45°にその都度船首を向けて安全に操船しなくてはならない。
飛行機の場合はプロペラ機の場合とジェット機の場合でその程度は違うが、基礎訓練で徹底的に学ぶのはまっすぐに飛ぶこと。
対抗気流、丘や山の近くの上昇気流+高山の麓から上がる乱気流がある高度3000m以下では要注意だ。真っすぐ飛んでいるつもりでも上下左右に常に流される。
航空隊だった伯父と戦後小型機のパイロットだったその上の伯父の2人からこの話を聞いた。軍用機と民間セスナ機の違いはあるが...懸命に聞いた。
海軍航空隊の予科練は霞ヶ浦の土浦にあったから、練習機で離陸した伯父は基地上空をトンビのように旋回しながら高度を上げて行く。練習機は複座といって前の操縦席に練習生が、後部席には教官が乗って指導する。十分に高度を取ると教官から指示「目標、前方筑波山!ヨーソロー!」
季節が冬になると関東地方は西の季節風が強烈に吹く。
「バッカモン!機が滑っている!筑波山の山頂を見ながら機を持って行くんだ」...と言われても操縦桿と左右のフットバー、出力のスロットルレバーの3つを自分の身体の運動のように扱えなければダメ....これを「3舵」という。
要するに「操縦の基礎」では如何にまっすぐ飛ぶか?が最大の訓練目標なのだ。
話はグッと近代になる。
私が幼稚園~小学生のころにはまだまだ飛行機に乗るのは、一部のお金持ちとか企業経営者とかだったように思う。
このころはまだ成田空港は建設中で、もっぱら東京へのaccessは羽田空港だけだった。
当時、羽田の滑走路に駐機していたのは戦後日本が独自に開発したYS-11と国内線・国外線を問わず(まちがったらゴメンナサイ)...ダグラスDC-8ばかりだった。
伯父の友人の航空関係のオジサンたちの話は興味深かった。私が練馬区の小学校にいたころだから小4のあの時か...以下はその時の会話。
「いやぁ....昭和も20年の春になると、もう生きているのかもう死んだのかわからないような毎日だったよ。上空で後ろにグラマンやP-51に食いつかれて機銃掃射だ...何度も機を滑らせて回避したかわからないな。今生きているのが不思議だ」
子供だった私はこの「機を滑らせて」という言葉の意味がその後数十年わからなかった。
要するに、当時の空中戦は如何に相手の後ろに回りこんで機銃を正確に撃つか..だった。
速度もエンジン出力にも勝る敵機に後ろにつかれたら....
もう攻撃するどころではない。如何に生き残るか...しかなくなる。
首が痛くなるほど後ろを注視していて「軸線があった!撃って来るぞ..」と思った瞬間に左右に機を滑らせて米軍機の射弾を回避したのだそうである。
海軍航空隊だった伯父も南太平洋から千葉県の館山航空隊へ移動中、硫黄島から離陸したP-51の編隊に取り囲まれ八丈島からは海面ギリギリまで高度を下げてジグザグに飛んだそうである。
P-51が高度を下げて機銃掃射に入るたびに「機をすべらせて」回避。
館山航空隊の対空砲火の射程ギリギリまでP-51は追いかけて来たそうである。
飛行機の練習過程では技量未熟で機が滑ってしまうが、絶体絶命の空中戦で避退するときには敵機は「正しい予測の空間」に照準して撃つ。だから命中しない。
もう還暦をとっくに越えた私は「滑る」とか「スベリ」と言う言葉を聞いただけで父や伯父たちの歴史の彼方へ魂は時空を超えて飛んでいく....悲しく懐かしい時代へ。