進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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イドラ...?
2021.05.06
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人は皆さまざまな関わり合いと制限の中に生まれる。全くの自由な誕生とか、自由意思で選択したから生まれたなんて言う人はいない。
その後の育った環境、働く職業集団によって人はかなり制限され或いはcontrolされたものの見方をするようになる。
これはあたかも「洞窟の中にいて外の写し絵を見るよう」だと考えたギリシアの哲学者プラトンは「洞窟のイドラ」と呼んだ。
「人はそれぞれの洞窟の中に住んでいる」
この有名なプラトンのidola論は私の知る限り、昭和28年くらいから高校の社会科「倫理社会」の教科書で紹介されている。この年には何か意味がある。この年前後の生まれの人には両極端の可能性があるように思う。
昭和20年から日本はOccupied Japan(占領下の日本)と呼ばれ米軍中心の連合国に占領されていたが、7年の暗黒時代を過ぎようやくサンフランシスコ講和条約に日本全権の吉田茂が調印。日本は再独立を果たした。それが昭和27(1952)年。
独立国に占領軍がいるのはおかしい。
ここに、それまでのGHQによる米占領軍はAdvancing Army(進駐軍)と呼ばれていたものが「在日米軍」になった瞬間でもあったのだ。日本に駐留を続ける法的根拠が必要だ。そのために日米安保条約が結ばれた。この日米安保についてはお調べいただきたい。
すこし時間軸をbackさせるが、GHQの最大の目的は「日本がまた軍国主義の道に進まないよう」に日本を改造することだった。
農地改革・財閥解体・旧軍の徹底した武装解除・旧軍人と戦犯の公務員禁止などだけでなく、前時代的な雇用関係を消滅させ農商工漁業の全てにわたって古い日本の名残を消しさった。
GHQはバカではなかった。
「忠君愛国...滅私奉公」の戦前の教育が最後の最後まであきらめない日本の底力を生んだことに気が付いた、と同時に恐れた。戦前のキリスト教宣教師や大学の英米文学の教員から日本文化の質の高さと純粋なその特質が古くは武士道から来ているらしいというreportを徹底的に分析していた。
この過程で先祖を日本に持つ日系2世の米軍将兵が悩みつつ日本の新しい時代をつくるために白人将校との間に立ってどれほど懸命の努力をしたことを申し上げたい。
しかし、個人の命がけの努力も一命を賭しての意見具申も国家戦略の前には無力である。
GHQは日本を去るにあたり「保険」を残した。
保険とは....アメリカと未来永劫に敵対しないこと。将来いかなる交際情勢の変化があってもアメリカを支持しアメリカの勢力圏にとどまること。これをより具体的に有効にする国際条約が日米安全保障条約(日米安保)である。
GHQの保険は私の知る限り次の2つである。
ひとつは「GHQコード」とも呼ぶべき「新聞・出版・のちのTV」のメディアすべてを強力にcontrolする「基準」である。
「アメリカ・イギリス・中国(当時の中華民国)」の連合国に関するマイナスになるすべての報道も出版もしてはならない。それが事実であるかそうでないかのいかんにかかわらず。その一方で「戦前の日本を美化する」一切の報道も著作もこれを禁じる。
逆らえないものに対する平身低頭の姿勢は長らく日本の自己自衛の精神的伝統でもあったのだ。
この昭和27年(1952年)に残されたGHQコードはその後今日に至るまでの長い時間、あたかも隠れキリシタンの踏み絵のような機能を果たしてきた。
例えば、皆さんの中に「満洲・中国本土・朝鮮半島」からの終戦後の引き上げ日本人がどんな状態であったかのメディア報道を聞いた、或いは読んだ方はあるだろうか?
関東軍が武装解除され現地の警察も消滅したあとの治安など皆無だった現地の状況は?
中国人・朝鮮人(当時は韓国は存在せず)・ソ連兵による虐殺、略奪、強姦(レイプのような言葉では足りない)が日本人引き上げ者に当然のごとく連日連夜おこなわれた。
言いたくもないから誰もが避けるが、子供を亡くして自決する一家....引き上げ船にようやく乗ったものの、ソ連兵か中国..朝鮮人かわからない子を妊娠して舞鶴に上陸後、発狂し自殺したうら若い日本女性など歴史と戦争と国家の最大の犠牲者と思うが、戦後一切の報道もされないままではないか。朝日新聞は何をやってるんだろう?!
その責任を追及した人間や組織、国があったか?
恨みと悲しみのままに死んでいった300万人の骨は誰が拾うのか...あまりに片手落ちで理不尽ではないのか?同じ日本人として恥ずかしくはないのか?
こう感じる私は右翼か?軍国主義者?なのか....
祖国の将来の平和と繁栄を信じそのために未だに南太平洋の海深く眠る血縁を思うと涙が滲むのである....私が生まれる直前までマイナス30℃のハバロフスクで伯父はシベリア鉄道を工事する日本兵捕虜だった。
それらは私にとっては消し去ることのできない事実であっても、戦後の歴史から見れば数学の証明における仮定の一部に過ぎないのだろう。
でもである。
今も...今なお...2021年においてもGHQ放送コードは日本のメディアを縛っている。
戦後80年近くたっているのにGHQコードに忠義を尽くしたところでどうなるの?
...と思うが最早、本能的に結果として中国(中共)と韓国を刺激しないように...結果として母国の日本を悪者にしようとすることがメディアの使命とばかりに努力している。
いや右翼とか左翼とかそんな狭い解釈ではなく、同じ日本人としてそれでいいのか?
余りにも思いやりに欠けた報道姿勢ではないのか..と思うのである。
これが私の言う、今に続く「イドラ」なのだ。
この点に触れようとしただけで、右翼だ・軍国主義だ....また戦争になってもいいのか。
そんなに我が子を戦場に送りたいのか?!
という思考停止の批判をあびるのが今の日本だ。
GHQは日本史の研究を停止し、伝統的文化を廃絶しようと躍起になった。歴史と文化伝統をとり上げてしまえば民族の管理はたやすい。今の中国がウィグル・チベット族に同様のことを行い、かつ警察力・武力をもって強制しているではないか。
日本は敗戦によって明治以来の努力の成果のほとんどを失い「心を捨てて経済に生きる」道を選んだのだ。
その強引な道案内をしたのがアメリカ合衆国だった。
案内をしたんだから責任を取れ!
いま多くの日本人が価値を最大に置くのは「カネとモノ」である。ものごとの判断基準は「損か得か?」若者にいたってはこのさらなる進化系思考である「コスパに合うか?」で人間関係までをも決める傾向にある。
当のアメリカは昔日本にそんな指導をし、規制コードまで押し付け残したことも忘れているのに日本には頑固な後遺症のように残っている。
TV・新聞は中国・韓国の横暴も勝手な主張を正確に伝えることはない。領土領海を侵奪されてもメディアを上げての抗議をすることもない。
一体「竹島」なんて江戸時代から日本領であるし、尖閣諸島は前の中華民国が、更に前の清の時には向こうの中国側が日本領と認めていたのだ。それが1972(昭和48)年に尖閣諸島付近の海底に天然資源が発見され、かつ沖縄が日本領に復帰したとたんに中国は自国領だと宣言して今に至る。
この辺の正しい歴史の流れを身に着けていないと簡単に領土は掠め取られていくことを肝に銘じたい。中国は甘くない。アヘン戦争の恨みを永遠に忘れない。
私は以前ソウルで激昂したデモの民衆が時の小泉首相の等身大ポスターに火をつけて土足で踏みにじり、日本大使館にゴミや汚物を投げつけている場面に偶然居合わせたことがある。小泉首相はあまり好きにはなれなかったが、それでも一国の首相の等身大ポスターがデモ隊に凌辱されるのを見て
私自身..どうして日本人とわかったのか....タマゴ(なぜかタマゴ)を投げつけられた。日本大使館正面に警備のためにいたソウル警察の警官は一切止めようともしない。この事実を日本のメディアは一切報道しなかった。
クッそー!!
アタマからタマゴのジュルジュルをかぶり...呆然とソウルの街角に自分は立ちすくんでいた。人間、こんなめにあわなければ自分がなんであるかわからない。否定しようがしまいが、過去の歴史の上にその延長上に生きているのが日本人としての自分だ..という事実。
アナタがどう否定しようが、自分には一切関係ないと言おうがダメ。
周囲がすべて外国人という環境になって初めて日本人は....いままで何のストレスもない同国人に囲まれ安全な日常を送っていたか...と言う事実に初めて気が付く。
「自分さえよければ」「自社の社益にかなえば」と言う経済が潤えば「後は野となれ山となれ...」で別に構わないじゃないか。いい思いをした方が勝ちだよ。
いますね。私の周囲はすべてこういう人たちだ。みな「イイヒト」だ。
でも、多くの反発を恐れずに言えば、これこそがプラトンのいう「イドラ」そのものだと私は考える。ギリシアの哲学を如何に学ぼうと現在の自分に行かせなければ何の意味もない。
ちなみに英語ではこのidolaに近いものに ' prejudice 'がある。日本語の訳語は「偏見」とされるが、それこそ偏見だ。語源的には' pre(前もって)'+'judice(判断する)'からなる言葉である。
言語には力と限界がある。日本語だけで考え日本語のみで見える世界は限られる。
ちなみに自分は英語を学ぶ過程でギリシャ語に触れたがあまりに奥深いことに驚愕した。
例えば日本語の「愛」は英語でも' love 'であるが、ギリシャ語ではその態様と内容によって確実に分けて使っている。
エロス......美を愛する。肉体の美も含む愛。
フィリア...友情の愛。友を助けまた助けられる友愛。
アガペー...見返りを求めない究極の愛。子に対する母の愛。キリスト教で言う神の愛。
近代の日本が陥っているのは「物質とカネ」のイドラ...でも程度の濃淡は各個人によってあるだろう。
ギリシャ人がidolaを問題にしたのは、人を責めるのではなく反省を促すためでもない。
それは人間が自分でそれと気づかぬ「イドラ」にとらわれていることで、一度しかない貴重な人生の時間を本来の自分の希望や理想とは別の方向に進むうちに終わってしまうことへの危惧なのである。
戦後の日本は仕方ないこととは言え「カネとモノの豊かさこそ」という国を挙げてのイドラにいないかと考えられないだろうか。
摩擦を起こさず...周囲にあわせて流されていくことこそ最大のイドラとも私は思う。
自分を失うことなく、でも周囲や地域の人たちと仲良く協力しあう。
その努力が今の私たちに必要なことなのではと考える。
新たなイドラをつくらないことも。