進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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旧海軍館山航空隊
2021.04.29
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このblogをお読みいただいている方々にはご存じと思う。
西川の3番めの伯父は旧海軍航空隊の搭乗員(パイロット)だった。当時の愛国軍国少年だった伯父は熾烈な試験を突破した。倍率で言ったら沼津高専か沼津東くらい。そして霞ヶ浦にあった土浦海軍航空隊の「予科練」即ち「海軍予科練習生」に入隊した。
同期生のほとんどが戦死。分けても特攻が多い。
伯父は昨年鬼籍に入ったが、私は随分と子供の時からお世話になった。
伯父の一言一言は忘れられない...
「一喜(私の名)、オレはね生涯に一度だけ試験に落ちたよ」
「予科練卒業間際の試験に、夜間空母発着艦試験があった。ただ一度、着艦の時にパスが低すぎてやり直しになったんだ。スロットル全開で高度を取り旋回してやり直したが」
「結果は希望していた戦闘機専修が不合格。雷撃・水平爆撃機に合格だった」
もし、あの時に戦闘機に合格していたら今オレはここにいないよ....と伯父は言った。
伯父は大東亜戦争も末期になり何としても戦果を挙げたいと考えて、航空隊だったのに第6艦隊の潜水艦部隊の「水中特攻」回天攻撃隊に志願。
伊勢湾での訓練を終えて東京湾に進出してくる敵機動部隊に突入せんと、湾口に位置する館山航空隊にいて「配置ヨシ!」海上に浮かびながらその瞬間を待っていた。
その前には伯父の乗機は硫黄島が敵の手に落ちてからも、硫黄島付近の偵察に飛び立っていった。当時の97艦攻と天山艦攻が伯父の操縦による機種である。
戦後長い間、伯父は黙っていて当時の海軍航空隊のことは一切語らなかった。
予科練の時から三重海軍航空隊そして終戦をむかえた館山の航空隊までの一切の記録は上官の命令で終戦直前に焼却したと聞いている。
「特攻隊員だったことが分かればオマエたちだけでなく、家族までどんなことになるかわからない。米軍の追及はあなどれない....気持ちはわかるがすべてを燃やせ」
だから伯父の戦時中の写真も飛行記録も一切残っていない。
でも伯父が語った館山航空隊の思い出は子供のころから心に残っていた。基地の近く大房岬の冨浦には父に連れられてキャンプ・釣りに行っていたから地理的な想像はついた。
伯父が語った言葉で覚えているいくつかがある。
「基地の海岸には沖ノ島と言う小さな島があって、砂州で陸上とつながっていたな。島には20mmの対空砲があったよ」
あと館山市内から海岸沿いに行く道は軍機につき「検問所」があって武装した海軍兵が警備していて軍関係者でないと通れなかった。
「航空隊の滑走路のわきには何か所か掩体壕があって、零戦や偵察機の彩雲が駐機していたなぁ」
今でもたまらない懐かしさのあまり房総の館山に行くと、そこは今「海上自衛隊館山航空基地」になっていて正門はセイラー服(海軍水兵の軍服)を着た隊員が警備している。
基地前の港には海上自衛隊の小艦艇(昔の内火艇)や千葉県の調査船が停泊している。
そのまま海岸沿いに進むと左手の小高い丘に神社があり、右手には民間の船舶修理のドックがあり....なぜか、水上レーダーがクルクルと回っている。
勇気をだして左手のフェンスごしに滑走路を見ながらなおも進むと....
「あった!!」
これが伯父が言っていた「監視哨」か!?
そしてその先には「沖ノ島」が見える。大潮の引き潮の時には安全に渡れる。いまでは館山市役所の管轄になっていて島に渡るのは自由、自己責任に任せられている。
数年前には沖の島に渡っただけで時間切れになった。
コロナが終息したらじっくりと泊りがけで館山に滞在したい。
今の人にはまったくわからない「掩体壕」
空襲にそなえて貴重な零戦や偵察機の彩雲をここに格納した。