進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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学校英語はダイジョウブ?
2021.04.18
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初めにお断りしておくが、私は日本の学校英語は良いと思う。
それは明治時代になり諸外国に1日でも早く「追いつきたい」とする当時の新政府が、すべての産業の生産力の元にあるのは「技術」であること。さらに突き詰めて見れば技術の基盤は国民の教育レベルにあることを悟ったからだった。
そのために国民の教育を考えた時にluckyだったことが一つだけあった。
それは江戸時代から各藩には武士の子弟を教育するための「藩校」が、町民の子弟のためには「寺子屋」が存在して、藩校では朱子学を寺子屋では読み・書き・そろばんの初等教育が行われていたことだ。
子弟の教育のため藩は厳しい財政のなかから、庶民(農民・町人)は食べるものをも減らしてでも...今で言う授業料・学費をねん出していた。
日本人の教育レベルの高さには幕末の開港場(横浜)に来日した外国商人たちも驚いていた記録があるくらいだ。船舶からの荷下ろしの港湾労働者さえも「文字を読み書き」するし簡単な「計算」ができるとは....彼らの本国では限られた上流階級の人間だけが備えている能力だ!
明治の英語教育はその基盤の上に立って始められた。
即ち外国の先進技術を学ぶために輸入した技術書を「正確に翻訳すること」が何よりも求められた。まさに、ここにこそ日本の発展があるからだった。
そして英語を苦労して学んだ経験のある方にはお分かりだろうが、正確な翻訳には「正確な英文法の力」が絶対に必要になる。
だから、日本英語が発音をある程度犠牲にしても「翻訳調であり文法重視」の教育になるのは当然であったのだ。
国家プロジェクトともいえる「技術獲得」のための英語教育はその後も続き、日本は日露戦争にも勝利して西欧列強に肩を並べるまでになった。言いたくはないけれど、近代戦争は技術力と生産力の勝負になる。
この訳読+文法力に重きをおく指導法は、いかにも日本の事情に合わせた英語教育法だったと思う。
今も有効だと言ったら驚かれるだろうか?
日本の日常生活や家庭内の会話が英語だろうか?確かに都市部に住む英語を話す外国人は増えているし、仕事で英語の会話が必要な場面もあるだろう。しかし、今の日本でそれは例外的な場面である。
例外によって全体の傾向を判断するのは論理学的に言って間違いである。例外的な事実によって自分の決心や方針がふらつくのは自分自身か自分の価値観に自信がない証拠だ。
学校の英語指導は以上の意味から大変だと推察する。
単語と文法を覚えさせ+英語のコミュニケーション能力...までも身に着けさせることだ。
ただあまりにコミュニケーションを重視するあまりに、1時間の授業の大半を英語のビンゴゲームと歌で終わっているようでは困る。
受験に必要な文法・長文読解の勉強は塾で...なんて言うのでは学校英語の敗北だ。
本来なら、塾になんて行く必要がないくらいに教えるのが学校英語のあるべき姿ではないのか。私自身も高校で英語を教えていたから、学校の授業の大変さや時間に制限のあることも十分にわかる。
かつて、中3の高校受験の直前まで英語の授業でゲームばかりしていて問題になった実例があった。
文科省は学習指導要領で「教える内容」を示すが「教え方」は各指導教員に丸投げしていることはご存じだったろうか。
驚くなかれ....「~を教えろ」と指示するが「わかるように教えろ」とは言っていない。
教員は決められた時間で教えればよいのであり、生徒全員が理解するようにと言う義務は負っていない。
さらにはその「教え方」も現場の教員に任せられているのである。
どの先生にあたるかで結果に差が出るようでは父兄も生徒も不安になる。
これも人生の「運」なのか。
PS:大学の英文科・英語学科・国際関係学部では教員は日本人・外国人も含めて自分が教えている学生に「キミは英語がはなせますか?」' Can you speak English?' or ' Do you speak English?'なんて一切聞くことはない。学生の中にはかなりの割合で帰国子女がいるし、英語の会話能力があるのは当たり前だから。講義の質問やreportも「英語・日本語のどちらでも可」' English and/or Japanese will do.'となっているくらいだ。