進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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顔が違う
2021.04.27
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明治初期1871年の岩倉遣欧使節団
キリスト教精神の同志社大学を建学した新島襄。
皆実に立派な顔立ちである。年齢は驚くなかれ20~30歳代の青年ともいえる年代だ。
今なら50~70歳くらいの重みと迫力のある容貌と思う。
時代がなせるワザなのだろうか。
かつて建国間もないアメリカでの話だが、大統領のLincolnが面会を求めて来たある紳士と会談した後に秘書に言った言葉だ。
Lincoln「私はあの人物とは二度と会いたくない。顔がよくないから」
秘書 「顔でそのような判断をされるのはいかがなものでしょう?」
Lincoln「いや、そうではない。人間30年も生きていればその生きざまと心で何を考えて
いるか...それがその人間の顔になるのだ。あの人物の顔は醜い醜態そのものだ
った」
実のところ、言ってはいけないと思いつつ誰でもそう思ってはいないだろうか?
教養があり学問を積んだ人間はそれなりの顔をしている。
人生の目的はカネとモノ...と考える人間は心の中がそのまま顔に具体化している。
自己主張と人を見下すことに価値を見出す人間は残忍で狡猾な顔をしている。
どんな顔をしていようとそれがなんだ。アンタには言われたくないねェ...と激昂する人はその思いに相応しい顔をしているのが普通だ。
今の日本では「利益の有無」「データ・数字で確認できるもの」「自分が利用できる相手」にしか価値を置かない傾向にある。
それでいいのか?
それだけでアナタは満足なのか?
あの非人情な経済学においてさえ「ひもじい時に食べるパン1つ」と「満腹の時のパン1つ」とは意味も個人における価値も違うと論述している。
経済学で言う「効用」のことだ。
一生は限られた時間である。
自分はどんな顔をして生きているだろうか。
一方でどんな「顔」の人間と接点があるのだろう?
人生の選択の余地はこんなところにも表れる。