進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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ゼロ戦の心
2021.04.09
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これが零戦(ゼロ戦)。正確には十二試艦上戦闘機と言い旧海軍の戦闘機である。
ことばに敏感な方は気が付いたかも知れない。艦上..とは原則的に空母に載せるという意味である。当時の軍関係者は「ゼロ」が敵性外国語の英語なので零戦を「レイセン」と呼んだそうである。
あまりこういう話をすると、ニシカワは右翼か?軍国主義者か?と言われそうだ。
そのどちらも否定する。ただただ日本を大事に思う愛国者ではある。
毎年同じtitleでblogを書いているけれどお許し願いたい。
今もそうだが....領空を維持するのに必要なのは飛行機の中でも武装に優れて高速の「戦闘機」を如何に維持できるか。ただそれにかかっている。
今から80年前もそうだった。
今回は細かいことはさて置こう。
ご存じのように今も昔も日本には「天然資源」がない。十分に国民をまかなえるのは「コメ」だけである。
江戸時代中期から欧米がアジアを侵略し植民地とする中で、これに対抗できるのは唯一日清・日露戦争に勝利した日本だけだった。
資源も燃料も、軍事費用そのものも抑えられたなかで「軍事費に制限はあっても訓練に制限はない」とのsloganにより、当時の陸海の将兵は血の出るような練磨を日々こなしていた。
欧米の戦闘機に追いつき追い越すことを目標に、決死の思いで日本の航空技術の全てをつぎ込んで設計した飛行機が「ゼロ戦」だった。
それは、日本という「資源はない」「狭い国土」の条件下でいかにして欧米の潤沢な資源・資金で作られた大型重武装の飛行機と肩を並べ....凌駕できるか?ということだったのだ。
この「限られた資源」「限られた資金」+さらには「限られた時間」で人智を尽くし全力をかたむけて考えられる最高の....イヤそれ以上のものを作る。
こうしてできたのが当時のゼロ戦だった。
信じられない航続距離。クルマで言うなら燃費の良さ。
これは徹底した軽量化によるものだった。ネジ・ビス1本にいたるまで削り、空気抵抗を減らすために機体の鋼板をつなぐリベットのアタマを平らに削った。これが歴史上名高い「沈頭鋲」である。同時に空気抵抗が減ったことにより最高速度も上がった。
急旋回や背面飛行の時でも安定した燃料をエンジンに送ることが可能な「新形キャブレター」。引っ込み式脚は主翼装備でピッタリ収まる。離陸してすぐに脚をおさめてスロットル全開の飛行が可能になる。基地または母艦からの誘導電波をたどり帰投できる「ク式無線帰投装置」...
攻撃力については言うまでもない。
世界のどの国の戦闘機もいまだに採用していなかった「20mm機銃」を両翼に装備していた。炸裂弾だから1発命中すれば敵機の主翼が吹っ飛ぶ。
加えて操縦席から直接照準で狙える7.7mmの小口径機銃を装備。これはエンジンカウリング(cover)の先端から発射されるのだが、プロペラの回転数に同調して発射され「絶対に自分のプロペラに当たらない」ように設計されていた。小口径弾は威力は小さいが命中率は高い。
この結果....航続距離2000km(当時の連合国戦闘機は500~700km)と言う長大な脚の長さ。艦隊の護衛も敵地へ侵攻する爆撃機の護衛もできる、更には空戦性能が抜群で小回りが利く信じがたい戦闘機が誕生したわけである。
開戦の昭和16年(1941)からゼロ戦の優位は2年間も続いたのだから凄い。
アリューシャン列島に不時着したゼロ戦を捕獲。本土に運んで研究しつくした米軍の反攻はこの後に続く。
長くなり恐縮だけれど、資源はほぼゼロのなかで頑張らなくてはならない状況は今の日本もほぼ同じだろう。
最高速で走りながら時刻表通りに運行する新幹線。1分の狂いもなく離着陸する航空機。
...究極は燃費よく故障しないクルマ。
これらは80年前からの日本人の知恵と血のにじむような努力の結果であり集大成だ。
日本人にしかできない...同時に貧しかった日本ならではの経験と研鑽を重ねた結果が今の日本製品である。
クルマとパソコンの製品の完成レベルにおいて他国の追従を許さない。
私見だが、むかし日本の命運をかけて開発したゼロ戦(零戦)の「限られた条件で最高のものを」と言う精神は生きている。
その精神によって今の日本の繁栄があるのではあるまいか....
過去の犠牲と努力(過去を先祖と読みかえるも可)の上に今の日本がある。