進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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冬枯れの関東平野
2021.01.09
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私は幼稚園から小3までの4年間を埼玉県の川越で過ごした。もう50年以上も前になるのにあの頃の悲しいくらいの寒さを今でも覚えている。
今にして思えばあの頃は家の暖房も「コタツと石油ストーブ」くらい。一戸建ての日本建築は隙間風で熱が逃げる....壁には断熱材は入っていたのだろうか?
だから釣りに行くにも寒さに対する「決心」そして「忍耐」が必要だった。
今では信じられないだろうけれど「手がかじかんで釣り糸を結べない....指先が寒さで震えてエサが付けられない」なんてことはザラだった。
「なに...寒いだって!?それならとっとと家に帰れ!」と親父に怒鳴られるからなぁ。
流れが少しでもある小川はまだいいが、止水と呼ばれる「池・沼」は薄い氷が水面に貼っていることだってあった。
こんなに冷たい淡水...真冬の関東平野で何が釣れるんだろう?
幼稚園生だった私は霜柱の立つ田んぼのあぜ道や用水路を父の後に必死について歩きながら思った。
父...いや、やはり「親父(オヤジ)」と言うほうがあっている...
親父は「これから~を釣る」という説明をしない。ただtoolとエサを渡して現場の最前線で釣り方の実戦指導を1度だけする....いつも海でもそうだった。
わが子が何かを釣ると....「ワァーッハッハッハ!」と嬉しそうに笑って「釣れた魚」本日の目的魚の説明を始める。
ここでも真面目に聞いていないと、また頭を「ガツン」と殴られるから「直立不動の姿勢」でアリガターク拝聴する。
Prefaceが長くなり失礼。
そのかじかむ寒さの中で釣れるのは「タナゴ」だった。
そういってもおそらくほとんどの方にはわからないだろう....
タナゴと言っても、今でも釣れる海産の「ウミタナゴ」ではない。
淡水産の湖沼や流れの緩やかな小河川に生息していた「タナゴ」である。
古くは江戸時代の「大名」さえも夢中になったという釣りだった。
もう半世紀以上前のことで忘れたが...そのタナゴの種類は「オカメタナゴ」「ゼニタナゴ」「ヤリタナゴ」「カネヒラ」...あとは失念。
タナゴは美しい...水槽に入れて観察すると生きた宝石のようだ。
おそらく海の大物釣りの180度正反対の釣りが「タナゴ釣り」だろう。
平均で10㎝...最大でも15㎝の極小魚を...寒さに震えながら「短い竿」に「繊細な仕掛け」をつないで冬枯れの関東平野を釣り歩く...これが「淡水のタナゴ釣り」だ。
何が繊細って....その釣り糸だ。
私が親父と釣り歩いていたころはまだPEが発明されていなかったから...ナイロンハリスの0.2~0.4号を使った。江戸時代にはナイロンさえなかったから大名のお殿様は領内の「乙女の髪」を釣り糸に使ったそうである。
半世紀以上前に親父と釣り歩いた東京郊外の小河川・池・沼・水田...の湿地帯はすべて昭和50年くらいまでにそのほとんどは「住宅地」として埋め立てられ消えた。
もう淡水のタナゴは全滅に近い....
関西のおせち料理にある「タナゴの串焼き」というのは琵琶湖で獲れたタナゴらしい。
利根川水系と霞ヶ浦周辺にかろうじて「タナゴ釣り」が残っていると聞いた。
確信はないが...これは「バラタナゴ」か?その優雅な美しさは筆舌に尽くしがたし。