進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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嗚呼...硫黄島
2021.01.07
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嗚呼(ああ)なんて....言うと東映の戦後に作られた反戦映画のようだ。
硫黄島と書いて皆さんはどう読まれるだろうか?
「いおうじま」「いおうとう」のいずれかだろうが前者が多いと推察する。
歴史上の本当の名称は「硫黄島(いおうとう)」であることに間違いはない。
硫黄島上陸作戦の時に米軍にいた日系2世(階級は不明)が島の名を上官から尋ねられて「イオウジマ」と答えた。その瞬間から「硫黄島」は「イオウジマ」になった。歴史とはそういうものである。(cf. Historical-find,Indian...)
小笠原諸島の南...サイパン・グアムの北に位置する硫黄島は唯一大型機の発着が可能な平地がある日本領だった。
米軍が何としても硫黄島を欲しい理由はただ一つ。
日本本土の爆撃で対空砲火や迎撃戦闘機によって損傷したB-29の不時着地点として。また護衛戦闘機のP-51やグラマンF-6Fの常駐基地として、どんな犠牲を払ってでも手に入れたかったのであった。
守る日本側の硫黄島守備隊の総司令官は栗林中将....騎兵出身で「愛馬行進曲」を作詞。アメリカ本土へは駐在武官として在米期間も長く英語は抜群に上手だったと聞く。
中将はミッドウェー海戦の敗北以来、米軍は南太平洋の島伝いに日本本土を目指して北上してくると予想した。
だから硫黄島を徹底的に「要塞化」して一日でも長く米軍と対峙する道を選んだのだった。それは勝つためではなかった。
....米軍に少しでも多くの損害をあたえて日本本土が攻撃されることを遅らせようとする...確実に来る敗戦の後、講和条約を有利にすることを目的とする。
これ以上はないくらい悲しい戦いだったのだ。
島の形が変わり地上には何も残らないくらいの凄まじい艦砲射撃を加えてから上陸してくるのは当時の米軍の取る上陸作戦だった。
太平洋戦争の全領域で唯一「米軍側の戦死者が日本軍のそれを上回った」戦いだった。
その作戦は「アリの巣」のように全島を「地下道で結ぶ要塞」とすることだった。これは日露戦争のロシア軍旅順要塞を遥かに凌ぐ建設だった。
この辺りは映画「硫黄島からの手紙」(日本側作製)と' Flags of our Fathers '(America側作製)に詳しい。私はいわゆる「ドンパチもの」の映画は好きになれない。でもこの2つの映画は日米それぞれの兵士の恐怖や迷い、家族への愛、国を思う心をそのまま描いているからご一見をおすすめしたい。
硫黄島はその後の歴史にも影響を与えた。
ベトナム戦争の時にヴェトコン(Vietnam Communistの略)が米軍のB-52による猛爆撃に耐えるためにjungleの地下に巨大な地下道を掘り、村全体を地下に移動して戦ったのはこの硫黄島の日本軍の戦法を学んだ結果と言われる。
硫黄が島中に噴出する火山島だったから、工事は気が狂うほどの耐え難いものだった。地下道の掘削では60℃を超える現場の作業で脱水により失神する兵が続出。それでも「スコップのひと堀りが内地の家族を救うのだ!」という司令官の言葉で死を賭して建設した。
後の世に..「軍国主義に洗脳されただけのことだ!」と批判し断罪するのは簡単である。
自分は安全な時代と所にいて、ただただ批判することで生活している人間に問うてみたい。 本土の犠牲を減らそうと..心身の限界まで戦い抜き...日本の護持と繁栄を最後まで願って亡くなった硫黄島の英霊にあなた方は何と返答するのか?
私の伯父は海軍航空隊だった。硫黄島基地を離陸した最後の海軍機は伯父の乗機だ。この話はまた後日。
これらの機が占領した硫黄島に日本軍の滑走路を延長し常駐した。本土上空までB-29を護衛した後P-51は低空に舞い降りては東京・横浜..内陸都市の地上銃撃を行った。
機銃掃射は爆撃より残酷だった..と伯父や母から聞いた。想像もしたくないがそれが戦争の真実なのだろう。
太平洋戦争での日本側死者は260万人と言われて来た。
いまアメリカだけでコロナにより2000万人が亡くなった。