進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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自分の5.15事件
2020.05.15
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「ニシカワ君ねえ....公私混同するなよ」と高校時代からの親友I君に叱られそうである。
日本近代史のなかで、軍部の少壮将兵がなんとか行き詰った外交と困難を極める国内の情勢を解決しようと起こした2つのCoup d'état(仏語:クーデター)があった。
一つは海軍の将兵が起こした5.15事件、他の一つが陸軍将兵が起こした2.26事件だ。
私にはもう一つの5.15事件がある。
それは西川の2番目の伯父が亡くなった日であること...長兄の伯父は関東軍の将校だったから終戦とともにソ連軍に降伏しシベリア鉄道の強制労働とラーゲリ(捕虜収容所)の過酷な暮らしで帰国後に若くして亡くなっている。
だから2番目の伯父が事実上戦後の西川の家で長男の役割を果した..大変だったろうなぁ...伯父さんお疲れさまです。
3番目の海軍航空隊の伯父とは正反対の伯父だった。
電気が専門だった。
大学の経済学部を出たわけでもないのに、経済とか数字に明るかった。これは伯父が商業の専門の学校で勉強をした関係からのことであるかもしれない。
とにかく「効率が最優先」で仕事も自分の生き方そのものも...そのpolicyを徹底したから凄い。家族にもその生き方を示して皆その通りの生活をしていたからやはり凄い!
伯父は確か...三菱に入って軍属だったから(軍の必要のために働く人員)、召集令状は来ないまま大陸(中国)のチンタオにずっと住んでいて軍の物資の買い付けに中国奥地まで出かけたそうである。
そんな日本人は当時の中国人から見れば「日本軍」と同じだったろう....軍のために銅や石炭を買い付けに遠路出かけては....命を狙われた。
宿泊先のホテル・宿屋の寝こみを襲われたり、奥地からチンタオ(青島)の三菱商事に帰る途中を中国人に密告されて、高粱(コウリャン)畑の中を機関銃の連射される中を必死に逃げたそうである。
「一喜(私の名)、耳たぶをかすめる敵の機関銃弾ほどコワいものはないよ」
「一秒の半分も違っていれば確実に死ぬ...」
と言った伯父の言葉は忘れられない。
伯父は徹底したrealist(リアリスト)であった。
「誰も否定できない現実+自分の利益」ですべてを考え判断していた。
人はそれぞれに、いろいろ言うけれど。
伯父は自分の信じる生き方を生きて、東京の東村山に自宅を建て仕事をし、長野に第2の人生を送るべく2軒めを建てた。
そしてもともとが三菱の製品を扱う町の「電気屋さん」だったから、アフターケアが不足する長野の地元で様々な「電気製品修理」や「電気工事」を頼まれてはやっていた。
この時期...そう伯父が東京の東村山から長野に移って亡くなるまでの15年間..私は伊豆の伊東から片道6時間をよく通った。
一つには以前に話したように14歳(中2)から親父がいなかった自分には、誰よりも何よりも「血のつながりのある年長者の助言」が必要だった...
あたかも砂漠に水を求めるあの気持ちと似ている。
ただただ伯父の言う一言の「助言」が欲しかった。
それは昭和の歴史のなかで「大陸の国府軍や八路軍...ゲリラ」の銃弾をかいくぐって生き延びた伯父の運の強さ..帰国してから何としても「生き延びる」努力を惜しまなかった伯父の生きざま....
それを心から信頼していた、伯父を尊敬していたからにほかならない。
伯父は努力家だった。常に自分の向上のために会うたびに何かを勉強していたことを思い出す。無線技士・ボイラー技士・危険物取扱者乙4・電気工事士...
私は当時の伯父と同年代になった。
思い出す....
私が「オレは文系で英語や法律ばかり勉強してきたから、伯父さんみたいに理系のことは勉強してもダメだろうと思うよ」と言うと...
「オマエね、それでイイならオレは何にも言わないよ」
「でも....それで一生が終わってイイのか、一喜?!」
この言葉は今でも耳に残る....
だから...伯父さんオレは還暦を過ぎて友人のみなが悠々自適だ..というときになって理系の国家資格を勉強しているよ。
もう伯父の持っていたウチの2つの資格試験に合格して免許を取った...
いま...最終目標の「電気工事士」を勉強中。
ただ、冬の実技試験の受かるかどうかになった。
伯父さんと同じだよ....