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逝く...旧海軍航空隊

2020.04.20

西川の伯父が昨日の朝亡くなった...少し前に肺炎になり入院して完治。無事退院して間もない、食が細いのは仕方ないと思っていたがこんなに急に亡くなるとは。

伯父には小さいときから本当に世話になった。短気であるけれど温情というかすべてに人間味のある伯父だった。

ある意味、父より影響を受けたかもしれない。父は威張ってばかりの人間だったから。

このblogでは何度も言及しているからもう記憶にある方も多いかもしれないが、伯父は旧海軍の航空隊だった。

伯父は父親が反対すると思い祖父の印鑑を押して海軍航空隊の受験申請書を密かに作成提出。なんと受験場所は帝大(今の東大)だったそうである。

当時の軍制に詳しい方はおわかりだろう。航空兵として海軍に入った伯父は霞ケ浦にある土浦海軍航空隊予科練で日々厳しい訓練を受けた。

やがて「赤とんぼ」と呼ばれる複葉(主翼2枚)の初等練習機で飛行訓練。広い霞ケ浦の上空からいつも地上目標にする物標は筑波山だったよ..とは伯父の言。

やがて単独飛行をゆるされ、中間練習機....となり練習機過程が終了すると、適正試験により「戦闘機」「雷撃機」「急降下爆撃」「水平爆撃」「大型爆撃」「偵察・通信」に振り分けられたそうだ。

伯父は「雷撃・水平爆撃」専修となり乗機は97式艦攻..やがて改良型の天山艦攻だった。

九七式三号艦攻写真は97式艦攻

伯父はこの97式艦攻を駆って南太平洋を転戦しラバウルにもいた。

運命を分けたのは硫黄島守備隊の時だった。

米軍が大挙して上陸する数日前に伯父は「最後の連絡機」に乗り込み離陸した。離陸旋回して高度を取ったと思ったらすぐに敵の対空レーダーにつかまった。

空母から離陸して来たのはP-51の小隊だった。米軍はこの時期に4機編隊で1区隊という単位で飛んでいたから、伯父の機を迎撃したのは4機のP-51だったと推測される。

伯父に以前訊いたところ「...あのなぁ、いきなり上空からバリバリと撃たれて瞬間に相手が何機かなんてわかるものか。無論撃ってくる瞬間の敵機は1機に決まってるけどな」

P-51はプロペラ(レシプロエンジン)機の最終にして最高傑作機と言われる戦闘機だ。
最高速度はゼロ戦より200km近く早く、14mm機銃6丁の重武装で燃料タンクに被弾しても生ゴムが被弾の穴をふさいでしまう自動燃料防漏装置まで備えていた。

あまりに優秀な飛行機だったから、大戦のあとの朝鮮戦争やさらにその次のヴェトナム戦争でも使ったくらいであった。

いろいろな空戦記を読んでもP-51とやりあって助かった..という例を知らない。

伯父はこの極めて稀な一例なのではないか..と思い、30年くらい前だったか「空戦記」を書いたらどうか..と私は訊いたことがあった。

「バカもの!」....でおわり。

伯父の機を追いかけた敵機P-51はしつこく追ってきては14mmの機銃弾を浴びせる。
こういう場合..敵弾を避けて急旋回を繰り返すと飛行機はそのたびにどんどん高度が下がるのはご存じだろうか?ジェット機でもこれは同じである。

伯父の機はとうとう伊豆七島あたりで海面を這うような飛行になった....これは飛行機が最後に取る防御方法である。

ペラが波頭をこするくらいの超低空飛行は熟練の技量でないと難しいが、下方からの銃撃を避けられるので「後ろ上方」だけを警戒すればよい。

観測員が窓から後ろ上空を見張る。敵機が銃撃針路に入って飛行機の軸線に合う。

「ハイ!」と合図する!

そのたびにパイロット(操縦者)は「フットバー」を蹴って機体を「左右」に滑らす。

海面には外れた機銃弾の水しぶきが飛ぶ....

必死の回避操作を繰り返しながら伊豆大島まで来た。

敵機のパイロットは手柄を焦るほど若かったのか、急降下して機銃を乱射しているうちに一瞬操縦桿の引き起こしが遅れた....

高速のまま海面に突っ込んで...戦死。

「あれも撃墜と言うのかな?」とはその時に聞いた伯父の言葉だ。

あとの3機は敵(かたき)を取ろうと滅茶苦茶に機銃を撃ってくる。

目的地の千葉県にある館山航空隊の上空、地上の対空砲火が届く限界まで追ってきた。

機体は穴だらけ..主翼の燃料タンクからはシューシューと航空燃料が漏れている..
パイロット(機長)は傷だらけで言うことを聞かない機体をだましだまし着陸させることに成功した。

機長..感謝です!1945(昭和20)年の春のことだがおかげで私は伯父に会えたのだ。

だから、私は時間があると千葉の館山まで行く。行きたくてたまらない...

当時の海軍館山航空隊、現在の海上自衛隊館山基地には伯父の思い出が染みついている。

伯父さん...長い間お世話になりました。
やがて、かの地で会いましょう...

伯父さんの心をわかるまで50年かかりました。

心からの感謝をこめて...







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