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九州の特攻基地(長文)

2020.04.02

何故か毎年3月になると75年前の終戦の年に自分の魂が戻っていく気がしてならない。

昭和20年3月10日の東京(帝都)大空襲と9年前の東北の大震災で叔母が津波で亡くなったことが重なるのかもしれない。

大戦中の日本には海軍と陸軍があったが独立した空軍はなかった。海軍の作戦計画にそって運営される海軍航空隊と同様に陸軍に所属する陸軍航空隊があった。

敵がフィリピンから島伝いに北上してくる米軍を迎え撃つ沖縄が危なくなれば沖縄に最も近い本土の航空基地は地理的に考えると自然に九州の最南端というlocationになる。

大隅半島南端には海軍航空隊の鹿屋(かのや)基地があり、鹿児島湾を隔てた薩摩半島南端には陸軍航空隊の知覧(ちらん)基地があった。

75年も前のことで仕方ないが、ほとんどの人はこの2系統の航空特攻を区別できず混ぜこぜに見ている。

よく映画のなかで「特攻観音」とか「特攻の母」の名称が出てくるのは陸軍の知覧航空隊の話である。陸軍は使用機種の多くが隼(ハヤブサ)と呼ばれる「陸軍1式戦闘機」だった。ほっそりした胴体と全体の形は海軍のゼロ戦とよく似ているがエンジンのパワーが少なく武装も7.7㎜機銃のみだった。

この隼に250㎏の爆弾を装着してようやく滑走路ギリギリまで増速。スロットル全開で離陸するのだ。ハイパワー重武装の米軍機に狙われたら急旋回も緩旋回となり回避行動もままならなかっただろう...

もっとも陸軍には同盟国のドイツからはるばるU-boatで日本まで運ばれた設計図により生産した「飛燕(ひえん)」という高高度性能に優れた戦闘機が数少ないがあった。飛燕が特攻隊の護衛についている(これを直掩隊という)間はまだよかったが、奄美大島をかわして沖縄に南下した瞬間に特攻機の多く50%以上が撃墜された。

海軍の鹿屋航空隊からは終戦の年の3月くらいからは「沖縄守備隊が危ない...すわ米軍上陸」という緊急時に入り気象条件が許せばほぼ毎日のように特攻隊が離陸していった。

海軍機の特攻は初めはゼロ戦...でも速度・諸性能が勝る最新の52型は本土防空隊に回されるので零戦初期型の21型が使われた。

戦闘機として米軍機と対等に太刀打ちできないなら戦闘機に爆弾を搭載した「戦闘爆撃機」として特攻機になることが「21型ゼロ戦の花道だ」と言うわけであった。

そして旧型のゼロ戦...前時代的な大陸で活躍した96艦戦、はては複座の練習機..空戦性能の劣る急降下爆撃機や雷撃機まで持ち駒のすべてを投入したのだった。

伯父は海軍航空隊で97艦攻・天山艦攻(艦上攻撃機)のパイロットだったが、爆弾や魚雷を装着して飛ぶ時の離陸の重さ...空中での上昇・左右の旋回の大変さをよく話してくれたことを思い出す。

このあたりの歴史を興味本位に...或いは何の事情も知らずに語る人は罪深い。

20歳そこそこの若者が狂ったように何故ゆえに死に急いだのか...
上官は何のためらいもなく特攻を編成し命令できたのか?

特攻が軍国日本のなせる究極の具体例だったのか...
当時の同盟国ドイツのエルベ特攻隊とどこが違うのか。

信じらえないだろうが私にはアメリカ人・イギリス人・オーストラリア人・ニュージーランド人の友人が多い。

歴史的に言ったら彼らは皆かつての連合国側の人間である。

狭い心で考えるならいまだに彼らは「敵」になってしまう。

かつての最大の敵国であったAmericaが今では最大の同盟国になったことは歴史上の否定しがたい事実なのだ。

その上で大東亜戦争(太平洋戦争)末期に日本が選択し多くの前途有為な若者が戦死した「特攻」がなんであったのか....と考えて行くのが後を託された我々の使命ではあるまいか。

「自分の利益にならないから考えない...」なんて言う姿勢は「亡国」「滅人生」のなせる業(わざ)に他ならない。

私は子供のころからずっとこの戦時中の困難を最前線にいた父・伯父・叔父から、銃後(内地にいた..の意味)の祖母・母にまで語られて、本当にイヤでイヤでたまらなかった。

自分の友人たちなんて全然そんなことはないそうだった。

何でオレだけ「空襲の恐ろしさ」「P51やグラマンの機銃掃射のコワさ」「特攻機がなんで撃墜されるのか」なんてことをお経のように毎日聞かなければいけないの?

横田基地やグラントハイツのAmericanの友達のパパたちなんて皆空軍の兵隊や将校だったそうだけれど自分にはいつも優しかったよ!

子供の私には歴史の残酷さも戦争の傷跡も...なにもわからなかった。
何であんなにやさしい人たちが...かつての敵だって?

ではなぜ...父は幼少の私をアメリカ人経営の学校になんて入れたんだろう。

神のもとに召されるまでにこの結論を出したいけれど...父は既にこの世の人ではないし、
海軍航空隊の伯父も入退院を繰り返している状態だからこんな話を相談できる状態にない。

それでも「永遠のゼロ」に始まって終戦直前の日本の姿をもう一度考えようとする機運が高まってきたことは個人的には嬉しい...涙が出るくらいに嬉しい。

どうして自分の先祖が命がけで..いや文字通りに命を捨てても「守ってきた日本」を大事に思ってはくれないのか。

「いまが良ければイイの...自分だけ良ければイイの...」

そういう日本人ばかりを身近に見る昨今である。

スロットル全開で離陸し沖縄を目指した特攻機を思っていただきたい。

彼らは日本が....それがどんな形であっても。

自分たちの「死」によって存続し繁栄し...永遠の平和のうちに栄える国であることを願って特攻散華したのだ。

私は「死者の願い・思い」を大切にしない人にも国にも将来・未来はないと思う。

戦争なんてない方がいいに決まっている。
特攻なんて絶対にあってはならない。

でもそれは「それが言える」...状況にあなたが今暮らしている証左ではあるまいか。

死者への思いやり...

これがなくては個人も国家も未来はない。





関大尉。




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