進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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特攻.....って?
2020.03.24
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今...春だ。
僅か75年前の日本は同じ「春」でもいかなる春だったのかを日本人なら知っておく義務があると私は思う。
いや、それがどれほど思い出したくない悲しく...残酷な春であっても。
「永遠のゼロ」の出版とさらには映画化によってかなりの若い世代があの時代に...そう、興味を持ってくれたことは嬉しい。慶賀である。
一般的な意味での「特攻」は......「生還を期せず自らの死をもって敵に最大の損害を与えること」であろう。
それは映画や小説で美化されたり悲劇として、或いは反戦の代名詞のように描かれてきた。
20代そこそこの若者が死地におもむくのだ.....
そこの解釈は戦後75年を経たいまでも左右に乱れる。
置かれた状況を無視し或いは考えに入れない「歴史観」は意味をなさない。
1945(昭和20)年の春は終戦を半年に控えてどんな国内状況だったろう......
すでに内南洋はすべて敵Americaの手に落ち、B29の爆撃+艦載機に機銃掃射される段階だった。
ここで言いたくはないが、航続距離の長い「爆撃機」だけ来るうちはまだよいが、燃費の悪い(航続距離の短い)戦闘機が飛んでくるようになったらおしまい...という事実がある。
この艦載機はグラマンF-16とP-51である。どれほどの高性能だったか..お調べいただきたい。
特攻隊は沖縄に接敵する距離の関係上「九州南部」に発進基地を持つ必要があった。
それは具体的に陸軍航空隊が「知覧基地」、海軍航空隊が「鹿屋基地」であった。
陸軍も海軍もまだ余裕のあるうちは最優速の戦闘機に爆弾を取り付けて「特攻機」として送り出した。陸軍では「一式戦 隼(ハヤブサ)」。海軍は「ゼロ銭 52型」だった。
海軍航空兵であった伯父の話では.......
「あの時にハヤブサやゼロ戦で特攻できたヤツは幸せだよ...」
「終戦近くなると、練習機や....もう最後には飛べる機体は全部が特攻だったよ」
オクタン価の低い練習機用の燃料を入れて(それしかないから)米軍機と東京湾上空でやりあった伯父には脱帽だ....
伯父は終戦時には千葉県の海軍館山航空隊にいた。
なぜ......
次回のblogで考えて行きたい。