進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
-
大津波は...
2020.03.11
-
私の叔母は9年前のあの大地震で起きた津波に家ごとさらわれて亡くなった。
場所は宮城県の奥松島と呼ばれる野蒜(のびる)。具体的には東名(とうな)という土地だ。その数年前に叔父が病気で亡くなった。叔父のお墓はこの津波で墓石ごと海中に流されて行方不明になり従妹がお金を出して探して元の位置に戻せた。墓石はあちこちが欠けて傷だらけだ。
叔母は老齢で一人では歩けず避難ができなかった。東名の地区は一軒残らず津波に呑み込まれて近所の人たちもほとんどが助からなかった。
叔母の遺体は3か月たって海上自衛隊の海中捜索隊によって見つかった。はいていた靴下に書いてあった名前のおかげで特定できたそうだ。
叔母の住んでいた東名は今ではもうだれ一人住んでいない....遺族にあたる人たちまでがことごとく津波で亡くなってしまっているし、稀に相続人がいても周囲が全滅した「その場所」に家を建てて住む気にはなれないのだ。
私は叔母の葬儀で震災から3か月後の東北道をひたすら北上して仙台IC.で下り、松島を目指した。途中に見たあの空襲の後のような光景は死ぬまで忘れられない。
仙台から国道58号に沿って東へ向かうと...利府、塩釜に出て松島湾が見えてくる。父に連れられて子供のころにこのルートをクルマで走ったことを思い出す...懐かしい海の香り。そして塩釜に入ると風に乗って美味しそうな匂いがしてくる。名物の「笹かまぼこ」を町のあちこちの自宅を改造したような小さな工場(こうば)で作っていたからだった。
それらすべてがあの大地震で崩壊し、津波で滅茶苦茶に流されて見る影もなくなっていた。松島の五大堂や瑞巌寺は何と奇跡的に無事だったが、その理由は現地へ行って初めて分かった。
松島は太平洋に面した湾口から湾奥の瑞巌寺までに1000を超える小さな島々がある。その島には大小を問わず見事な松の木が必ず自生しているが、松の木のびっしり生えた島々がブロックとなって大津波を受け止めてくれたのだった。だから湾奥の五大堂・瑞巌寺本堂も無事、係留されていたボートが流されたり土産物店が床上浸水した程度の軽微な被害で済んだのだった。
ただ...江戸時代に奥の細道を書いた松尾芭蕉もあまりの美しさを前にただの一句も浮かばなかった..というあの松島ではくなっていた。
その湾内に水平線の彼方まで浮かんで見えた「常盤(ときわ)の松」の島々はすべてが痛々しく赤茶色に変色していた。幾重もの津波を受け止めた時の海水による塩害である。
先月叔父叔母の法事で松島に行くと、9年かかって島の松は元の緑を取り戻していた。
田舎の従兄弟が言っていたが「震災からは立ち直った。でも東北の復興はできなかった」
「復興」とは元に戻すことを意味するがもう震災・津波の前の昔の東北には戻せない。
従兄弟はそう言いたかったのだ。
地区は崩壊し多くの人がなくなり、港は防波堤ごと海の底に沈み山は崩れた。
悲しいがもうあの頃ののどかな東北の山河はもはやない。
写真は津波3か月後の塩釜である。
