進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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誕生日です...
2020.01.05
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It's my birthday today !とAmericanなら大騒ぎするだろう。
今日は私の誕生日....西川さんは年齢不詳だ、とかいう人もいるけれどもうイイ。
還暦を越えて私は今日晴れて(?)62歳になった。
自分でも不思議だ。
だいたい40代からの20年間は何だったのか?
あまりに忙しすぎたのかな.......?
1年で休みを合計しても1週間という年代だったからなぁ。結局過労で入院すること数回。
毎年同じように塾で生徒をのめりこむように教え、高校+大学に送り込んできた。
ある意味、妻や息子たち以上に塾生を優先して来た..
反省ではないが、やはり反省か。
「ああ..すまなかったね」という思いが去来する。
そして、毎年1月5日が巡って来るたびに思いは千々に乱れる。
何で親父や伯父と同じ誕生日なの?
父親と同じ誕生日だから2倍お祝いしてくれたか...と言うと今風に言えば「真逆」だ!
以下はオヤジとの会話の記憶。
私 「お父さん、ボク..今日誕生日なんだけど....」
父 「オレも同じだ!」
私 「お祝いとかプレゼントは?....」
父 「バッカ野郎!つい2、3日前にお年玉をやったろう!」
私 「でも、それはお正月じゃ?」
父 「生きているだけで幸せと思え!それ以上どうこう言うヤツはクズだ!」
私 「........」
旧軍の予科練に入隊して、終戦を瀬戸内海の防府基地の海防艦で迎えた父だ...まあこういうのは仕方ない。
同じ誕生日の西川の長兄の伯父は大学出で旧軍の関東軍の将校だった。
終戦ともにソ連軍に降伏....私が生まれる少し前まで凍てつくシベリヤの日本兵捕虜収容所でハバロフスク市の建設とシベリヤ鉄道の設置作業をしていた。
遥かな記憶にあるのは、シベリアのラーゲリ(捕虜収容所)の強制労働で200名の部隊中帰国できたのは部隊長と伯父の2人のみだったこと...
その伯父が品川駅を降りて東京の港区高輪の家に帰った。その後虎ノ門病院に入院する前、数年間を自宅静養していた時の伯父だ。逆算すると私が3歳の時の記憶である。
「一喜...私はオマエとずっと一緒にいるよ...」伯父の言葉だ。
まもなく伯父は亡くなった。
伯父は今でも私の心にいる....
最早...imageと言ってもいいだろう。
西川の伯父たちのなかで一番勉強ができ上品だった伯父。
当時誰もまだやらなかった菅平のスキーに出かけていたのはこの政一伯父だった。
私は祖母の晩年の数年間を一緒に暮らしたのだったが、祖母は昼寝をしていて目覚めると私を見るなり「マーさん!」(伯父を祖母は「マーさん」と呼んでいた)と言うのには返事に困ったものだ。私と政一伯父は似ているらしい。
だから私は自分の誕生日のたびに3人分の「重さ」を子供の頃から感じて来た。
政一伯父さん....お父さん...、一喜は今日62歳になってまだ生きているよ!
と呼びかける。
会いたくてももう会えない。この世では仕方ないとあきらめる。
そしてその一方で...何より私をこの世に生んでくれた母に感謝する。
誕生日とは母に感謝する日である。
その純粋な気持ちと母への思いやりの日であろう....それが誕生日だ。