進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室     | 日記 | 名前を書いたモノ

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進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室     の日記

名前を書いたモノ

2019.11.18

先日のこと塾でちょっとした出来事があった。

塾では学校の定期試験前になると5教科の範囲に合わせて対策のプリントを私の目から見て「出そうだナ」と思うところをピンポイントで作る。

だから生徒一人当りに配るプリントの量もかなりの枚数になる....

そのプリントを生徒は教科書・ノートを見ながら1枚仕上げるたびに私のところへ持ってくる...私は高速で採点して返却する。

間違いを直して完全に「突破!」するまで再提出をくりかえす。

このやり方は非常に効果があり長い間続けてきたが、唯一条件がある。

それはプリントに「本名フルネーム」で名前を書くことだ。
従って生徒(..いやもう塾生と呼ぼう)は毎回プリントに「名前を書く」作業を繰り返し行うことになるわけである。

これを塾生に要求するのは理由がある。

かつて地元の中学で実際に「名前書き忘れ事件」があった...

国語の期末テストで解答用紙に名前を書かなかった生徒がいた。実際に毎回のテスト・試験で名前を書かなかったり、友達同士のように通称で「ナッチャン」なんて書く生徒もある。大きな実力テストになると業者採点になる、高校の入試ではその高校の教員が採点を担当することをご存じだろうか?

だから、この国語の教員が「再三の注意と事前の再確認をした」にもかかわらず「名前を書かなかった」生徒を0点としたのはやむを得ない...一方に於いて当然の措置と言えると私は思う。

驚いた母親はこの教科担任の先生に抗議、校長に相談したがダメだった。

テスト・試験時の記名はこのように重要だ。

私はそれ以上に「名前」というものに深い意味を思う。

その人間がこの世に生まれた時に...或いは生まれるまえから両親がその子の将来を思い、幸あらんことを祈って名づけるのではないだろうか。

そこにはただ「他人との識別」機能だけでなく...否...それ以上の「親の深い愛情と願い」がこめられていると私は考える。

だから、私は名前だけでなく「記名されたもの」誰かの名前が書かれたものはもはや単なる「モノ」ではなくなる...のだ。

あなたは自分の両親や兄弟、子供の名前が書かれた何かが...誰かに踏みつけられたり、燃やされたり、生ゴミと一緒に捨てられたらどう思うだろうか?

自分の名前においてはなおさらである。

こう考えていた先日のこと....塾でチョッとしたhappeningがあった。

例のごとく「試験前の対策」でやった大量のプリントを捨てようとした生徒がいたことだ。地元の進学校のPクラスに当然受かるだろうというくらいの優秀な生徒だ。

その生徒がニコニコしながら「塾でやった大量のプリント」を塾のゴミ箱に捨てているではないか....!

これが見捨てておけるだろうか....

私 「キミ、何をしているんだ?」
生徒「塾でやったプリントがたまったから捨てているんです」

私 「何とも思わないのか?」
生徒「.........?」(ビックリしている)

私 「キミは自分の名前を書いてあるものを良く平気ですてられるなぁ?!」
  「それだけではないよ..自分の勉強の結果を捨てるのは自分の努力を捨てることだ」
  「あと言いたくはないが、この対策プリントを私は朝の4時に起きてキミたちの成績
   があがるように祈りながら作っているんだ...私に対しても失礼だろう!」

生徒「......」(黙ってゴミ箱から自分のプリントを拾っていた)

そのやりとりを他の塾生たちはジッと見ていた。

これは大切な躾(しつけ)だろうと私は信ずる。

幸いその生徒は抜群に優秀な生徒で、私の言わんとすることをわかってくれた。それはその日の後の彼の真剣なガンバリの姿が清々しいものになったことでも私にはわかった。

人は3歳までに育った言語環境の中で言語能力を身につける。

日本語も英語も...その発音・語彙の豊かさ・それが文法的か否か・聞こえるのが地方語か標準語か...すべてがここにかかっている。したがって周囲の大人の責任は重大である。

それ以降には「その言語」で毎日暮らし、「その言葉」で学ぶ中で文化的な価値観を周囲から吸収して育って行く。

さらに言及するなら「文化」にはその国・その民族の過去から伝わる歴史に裏打ちされた「歴史的価値観」が流れていることを無視できない。

日本には昔から「文字で書かれたもの=書物」や「文字が書かれたもの=人の意思・心が見える」を大切にする伝統があった。

私の祖父など...幼少のころの私が新聞をまたいだだけで「バカ者!」と叱ったものだ。

祖父とすれば「政治や経済、居ながらにして外交問題」までを教えてくれるありがたい新聞をまたぐとはなにごとか!..という当然の怒りであり時期を得た孫への教育だったのだろう。

これなどは明らかに明治日本から伝わる「文字言語」が人生を開花させ、国を豊かにする原動力を秘めた宝と考える...そうした歴史的価値観の具体例だったのではあるまいか。

塾の生徒が一生懸命に勉強して満点になった「プリント」を平気で捨てる姿を見て、私は瞬間にして..時空を超えて祖父が幼い私を叱ったあの瞬間に戻っていた。

自分や子供、家族...いや親戚や友人もふくめてだろうか。

およそ「人の名前」が書かれたものを、ためらいもなく捨てる人間には...あまり良いことはない...その実例を伊東市内で見てしまった。

ゴミステーションに学年がかわるたび、進学するたびに「自分の子どもの名前が書かれた...教科書・ノート・参考書..その他もろもろ」を邪魔だからと言って捨てていたお母さんがいた。

結果..と言ってよいか悩むが、不幸にもその子供は「高校受験に続いて大学受験にも失敗..」した。

本人はもう20年近く実家には一度も帰らない。一家離散である。

私はChristianでありながら不信心な..と自分を思うのだが、カトリックの信仰をあらわす一つに「ロザリオの祈り」がある。

この世の...すべての人との出会い。悩みながら努力しても失敗を繰り返す自分のあわれな姿...それでもなお頑張って苦しんでいる日々。

そこに自分の不幸や不運を嘆くのではなく「今はわからないが将来..未来に何らかの大きな意味をもってくるが故の試練かも...」と神の意思を思うのがキリスト教の深い信仰であると言われる。

そうしたことのすべてが、お互いに「原因となり結果になり」「理由であり行動になった」..それらが極めて有機的な意味を持ってリンクしている..ことに気づいて愕然とする。それを認識するのがロザリオなのだ...

仏教の数珠の意味とあまりに相似してはいないだろうか。

日々の話す「言葉」や周囲の人間との「かかわりあい」...家族・子供への「思い」が数年後、或いは数十年後の自分のあるべき姿になってくるのだから恐ろしい...と私は思う。

利用するものを徹底的に「利用」して...要らなくなったら「捨てる」

その考え方は将来においてあなたに適用されるだろう....

あなたが量るその量りで...あなたもまた量られるのである

















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