進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
-
遠い日のハゼ釣り...
2019.08.16
-
これがハゼ(マハゼ)だ!
なんとも剽軽(ひょうきん)な顔。
昔から「釣りはハゼに始まってハゼに終わる」言うが、つくづく本当だと思う。
そのくらいハゼ釣りは面白く誰にでも釣れるが、永遠にこれでよいという「ハゼ釣り」はないのである。
夏が来れば思いだす....
私がまだ小1のころだからもう半世紀以上前の話だ。
夏休みのお盆明けの頃だったが、帰宅した父が「オイ、明日は銚子(利根川の河口)にハゼ釣りに行くからしたくしろよ。明け方には着きたいから出発は今夜だ!」と言う。
大急ぎで釣りの準備をしてクルマに乗り込む..自家用車と言ったって経営していた会社の社用車だ。
当時は埼玉県の南部で東京都との境目近くに住んでいたから、銚子までの距離はトンデモなかった。首都高と東名高速がやっとできたくらいでいまのように「湾岸道路」もないし成田空港も建設前だから道路も一般道しかない....
10時頃に自宅を出て都内を通過。深夜の「京葉道路」を東京湾に沿って千葉まで行く。
当時は「木場(きば)」と言って本当に江戸時代から江戸川・隅田川の水運で上流から運んで来た木材(大きな丸太)を東京湾の更に湾奥の「ワンド」に浮かべてあったことを思い出す。このあたりまで来ると強烈な「海の潮のにおい」がした。
千葉から先は....寝込んでしまって利根川の河口の銚子へ着くまでの記憶はまったくない。
数時間たったのだろうか。
「コツン」と頭を軽くたたかれて目が覚めた。親父がよくやった...やたらに叩くな!
「うわっ!」もう着いたのか...うっすらと東の空が明るくなりかけた眼前には、巨大な利根川があった。川と言っても利根川の河口は約1㎞の川幅がある。雨や曇りの日には対岸が見えないこともある。
当時まだ有料だった「銚子大橋」を渡ったらそこは「茨城県」の波崎という漁港である。
「早く朝めしをすませて釣りのしたくだ!」と親父は興奮気味の声...
コンビニなんてないころだ、母がつくってくれた大きな海苔のおむすびを夢中で食べる。
夏だから「ドでかい梅干し」が必ず入っていたものだ。やけどしそうになりながらポットの熱いお茶をすする...
急がないとまたアタマを今度はガツンと殴られる! There's no time ..hurry !
親父は終戦時には海軍にいたから「早メシ」であった。理由を訊くと「ゆっくりメシを食ってたら戦死する!」のだそうだ。Ameican Marine Coops can't wait....
まあいい...
仕掛けはこんなに簡単なものでよかった。ハゼ釣りは今ではリールを使って遠くへ仕掛けを飛ばす「投げ釣り」が主体だが、利根川ではリールもウキも使わない「ミャク釣り」が適していた。
これは利根川のはるばる上流から流れてくる「エサ」が豊富で水深と川幅があることから、ハゼの魚影はおそらく無尽蔵と思えるほどだったからだろう。
要するに「足元にたくさんハゼがいるから投げ釣りの必要がなかった」のだった。
エサは都内の「エサ問屋」で深夜に買ってきた「ゴカイ」。釣りをやる人間にはおわかりと思うが最近はあまり釣具屋で扱っていない。今はシロギスやカレイ釣りに使う「ジャリメ(西日本で言う赤イソメ)」が主体のようだ。
これを食いがよければ「短め」にエサを節約してつけるが、水温低下や引き潮・潮止まりでアタリがないと「長め」さらに釣れないと「1匹まるごと」をハリにつけて仕掛けを下す。
食いのよい時のハゼは明確だ。「ククッ!ククッ!」と竿先に小気味よいアタリ。
もう嬉しくて死にそうになる!
こうして昼までに100匹以上のカタの良いハゼを釣りあげた。
あの時の思い出がその後の自分を作ったんではないか...とさえ思われるのである。
遠い日の夏の思い出だ。