進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
-
イイなぁ..筑波山
2019.05.18
-
関東地方の地図を広げると、箱根・多摩丘陵を過ぎてからひたすらに広大な「関東平野」が続く....そんな中で東のはずれの方、東京を起点にするとNE(北東)に屹立してあるのが「筑波山」である。
私が中2まで在学した東京都港区の高松中学からは、真冬の2月になるとNE(北東)の方向に「筑波山」が見えた。
これは真冬にmonsoon(強烈な西風)が東京上空に吹くので、当時のsmogが吹き飛ばされるからだった。
いや...早朝に登校した友人に「あれは茨城県の筑波山だよ」と説明したことを懐かしく思いだす。そのくらい東京の寒いスモッグの冬に校舎の屋上からNE方向に見える「山」は何だろう?という新鮮な疑問だった。
筑波山自体は海抜877mのそれほど高くはない。ただ、周囲数十キロメートルにわたり丘も山もないから貴重な山である。飛行機や船で陸上の目標物を「物標」というが、GPS/Naviがない時代には筑波山は「大切な物標」であったのだ。
筑波山は房総の館山とならんで西川の人間には縁(えにし)が深い。
1つは西川の3番めの伯父が海軍航空隊を志願して合格。筑波山の麓にある「土浦海軍航空隊予科練」で血の出るような訓練をしていたこと。
さらには、東京のB-29による大空襲から子供たちの命を守るために行われた「学童疎開」で、母と叔母(母の実妹)が筑波山近くの大宝という農村に祖母の身よりを頼って縁故疎開をしていたことがあったからだ。
余人には何でもない山でも、自分にとっては思い入れのある筑波山である。
土浦海軍航空隊(予科練)を離陸した伯父の練習機は必ず高度1000mで「筑波山に向け...「ヨーソロー」( on course )と後部座席の教官から飛行指示を受ける。
そんな80年前の瞬間が今に蘇る。
筑波山には「筑波神社」があり、江戸時代から「ガマの油(脂?)」の口上で有名だ。
なんでも....以下は子どものころに聞いた口上のimageの訳であるから詳細はお許しあれ。
「醜い蝦蟇(ガマガエル)を四方を鏡の小部屋に閉じ込める」と「蝦蟇は己の醜さにshockを受ける」...「タラーリ、タラーリ」と恐怖のあまり脂汗を流す。
これを集めたのが「蝦蟇(がま)の油」でとにかく「火傷(ヤケド)」にこれ以上の卓効はないとされる薬の出来上がりだ。
実際に自分が小5か小6の夕方、筑波山神社の境内で「四方鏡」に閉じ込められた蝦蟇を本当に見てしまった!事実は小説より奇なり..The fact is stranger than the novel.....。
本当に「筑波の蝦蟇脂(ガマのあぶら)」はヤケドに良く効く、と江戸時代から評判だ。
私が小学生のころに筑波山へ行くとなるとクルマでも「1泊の旅行」であった。そのくらいあらゆるaccessが悪かったのだ。だから学校へ行って「昨日オヤジと筑波山へ行ってきたよ」と言うと皆が話を聞きたがったものだ。
それに比べて今は随分と便利になった。
伊豆から...と考えるならの話だが、平塚まで海沿いに西湘バイパスで行ってしまう。
相模川の橋を渡ったらすぐ左折すると新湘南バイパスの入口だ。2㎞ほど行くと横浜方面と八王子方面の分岐。
これを八王子方面にどこまでも進むと、やがて「鶴ヶ島IC.」になる。鶴ヶ島IC.を右折して東方向に進むと都内の渋滞を完全にcutして東京都の北方をグルリと回れる。
走行距離は長いけれど「信号と渋滞」がないだけよい。
そして着くのが東北道の「久喜IC」だ。
ここからはそのまま「東北道」にのって福島や仙台へ行くは上記の圏央道か「東名+首都高」で浦和ICから東北道に乗る...と共通するのが「久喜IC」だ。
久喜ICで左折+北上せず、そのまま東に進むと自動的に常磐道versionの高速道路に乗っている....クルマにNaviがあれば見えていて欲しい。
やがてNaviにも「筑波山」は映りだす。
もうこの山の向こうは「水戸」 海は「大洗」だ。
誰もが行くところは1度行けばいいのでは...
次には誰も行かないところに行こう。