進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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館山...房州その2.
2019.05.11
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来週行く予定の「千葉県館山」は自分にとって、また西川の一族にとって思い出深い土地である。
親父は何故か東京から大変な距離なのに「館山」によく釣りに行った...昭和30年代だったか。終戦後まだ15年は過ぎていないころだった。
前回の「コルバン伝道」と並んで自分には忘れられないのが「海軍航空隊館山基地」だ。
西川の伯父は旧海軍の航空隊だった。米軍の侵攻によって太平洋の基地から転戦(?)を重ねて最後には、この館山基地にいた。
伯父は「オマエにもこれ以上は言えないよ....」と今でも詳細を語らない特攻隊。
すでに練習機まで特攻となった昭和20年の春には、高速の戦闘機による「特攻」は突っ込みたくても飛行機がない状態だった。
練習機(ご存知だろうか....「白菊」)さえも九州の鹿屋航空基地から沖縄に出撃していた大戦の末期だ。
もう搭乗機がない。
伯父は航空隊でありながら、魚雷を改造して操縦できるようにした「回天」の乗り組み員となった。
志願である。
日本海軍の「酸素魚雷」は触媒を空気でなく「酸素」とする。「高性能+大炸薬」の魚雷である。
伯父の乗った「回天」はこの連合軍の恐れる酸素魚雷を改造し、搭乗員一人が操縦して敵艦に突入できるよう改造したものである。
伯父は旧海軍航空隊に所属のまま、第6艦隊の「回天」特別攻撃隊になり終戦間際に東京湾に侵攻する米機動部隊に対し最後の攻撃を成すべく「浮上待機」していた。
そして...終戦。
伯父のいた旧海軍航空隊は現在「海上自衛隊・航空隊館山基地」となっている。
たまに訪れても「旧海軍の関係者」とか「旧軍の縁者」というだけでは基地内には入れない。事前にハガキでよいので基地司令官の事前許可が必要だ。
何だか...北海道のトラピスト修道院のときと似ているなぁ。あのときも修道院長の許可証をもらって修道院に入ったなぁ。
在日米軍基地にに入れるのに自衛隊基地に入れない....矛盾を大いに感じるが仕方ないか.....
因みに.....
伯父の「回天」特攻部隊は、米軍が東京湾に侵攻まで時間があると見て「硫黄島」「小笠原」の敵情偵察に連日飛んでいた。
乗機は旧海軍の97艦攻或いは整備済みなら最新式の天山艦攻だった。
もう米軍に制圧されていたから「攻撃」より「偵察」が主任務になり、限界までの燃料を搭載した。7.7mmや20mmの機銃を搭載しても敵機がグラマンF6やP51になると逃げるだけでも精いっぱいだったからだ。
ブースト一杯でエンジンが爆発しそうなくらいMaxなのに....これ以上どうしろと言うんだ!.........という絶望に近い状況で増速する!
伯父は便乗者で、操縦は零式輸送連絡機のパイロットだった。
硫黄島を離陸したらすぐに敵の電探(rador)に捕捉された。
敵機はすぐに空母を発艦。
館山基地の対空砲+対空機関銃....が届く射程の限界まで敵機P-51は追ってきた。
この時の館山航空隊が死力を尽くした.......
そのthe limited limeまで行って見たい。
そして1945(昭和20)年の8月下旬。
遂に東京湾入り口の館山にも米軍が上陸。進駐した。
伯父はLSTに乗って我が物顔で、館山湾の北条海岸に上陸する米進駐軍を受け入れたのだった。
「アイツら...カッコつけやがってヨウ! 完全武装で上がってきやがったんだ。」
(伯父の言のママ)
その忸怩たる思いを自分は受け入れたい....
館山とはそういう歴史の「場」でもある、と申し上げたい。
お若い世代の方はわからない+知らない歴史の事実でしょう.....
それでいいのだと思います。
温暖な房州の館山は真冬でも様々な野菜が採れる。写真は館山「冨浦イチゴ」。
館山は涙が滲む。でも私の世代で終わりだろう.....
沖ノ島の上空での伯父のP51との空中戦を思い浮かべられるのは、もう私だけだろう。
昭和...かろうじて平成の世は終わった。