進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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また国語か....
2017.12.15
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ああ、こまったなぁ....本当に困った。
問題は、生徒たちのあまりの「国語力のなさ」である。
15年くらいまえから心配になっていたが、年とともに深刻化。どうやら裏にあるのが携帯・PC・スマホなどSNSの進化(深化かも)に連動しているように見える。
ようするに今知らなくても困らないし、必要なら「スマホで調べればイイじゃん!」となる。もし家庭内で両親がこれを容認するようになるともうダメだ。
「辞書・辞典をひかず+読書なし」の生活形態が作り出した社会的病巣の具体的症状として小中高の生徒たちの国語力の急速な低下現象となっている...この危機的状況を是非にもわかっていただきたい。
詳細な具体例を挙げたほうが理解の助けになるかもしれない。
以下は塾・学校での実例である。
「計算は抜群にできるが文章問題はほぼ全滅」「英語の問題で時制(現在・過去・未来)が理解できない...いや本当です」「歴史・地理の人物名・地名をすべてひらがなでしか書けない」「国語の長文問題では読めないから作者・筆者が何を述べているのかわからない」結果として長文を読ませた後の設問は全滅...何を訊かれているのか、どう答えればいいのかがまったくわからない。「社会・理科の教科書はを読むこと自体が苦痛」したがって全教科の試験得点はさがり、勉強しているのに学力は下がる一方だ。
予備校の言うような解答のテクニックでは解決できない!
はっきり言って、英語はできなくても国内にいれば生きてはいけるだろう。でも国語は違う。まったく違う。日本語の「話す・聴く・読む・書く」が満足にできないなら受験はまずダメ。就職も面接試験の段階でハネられるだろう。日々のコミュニケーションさえも「ひらがなとスマホ」の世界になってしまうだろう。
先日も中学生に数学の比例を教えていて考えさせられる場面があった。
O君「先生、Y=aXの比例とY=⅟xの反比例の利用が全然わかりません!」
彼の場合比例・反比例のXやYの値を求める計算式は完璧にできる...凄い才能だ。
ところが利用(以前は応用と言った)になるとまったくダメ。文章問題だから。
「何を訊かれているのか?
どう答えればいいのか......?」
の究極の要点を数学の文章題から読み取る力がまったくと言ってもよいくらいない。
O君は泣いていた....
だから毎回の授業では「問題が何を言ってるのか、どう答えなさいと言っているのか」を説明しなければならず、まるで通訳である。
彼も塾を頼りにして寒いなかを通って来るのである....私には見捨てられない。
「オマエ、バカか!数学や英語の前に日本語をできるようになれ!!」と若いころの私なら言ったろう。ピンタくらいしたかも...ちょうどいま中学の教員をしている長男の歳のころだ。
私にも許容度がなかったなぁ。思い出すのはひたすら「良いものをたくさん教えれば優秀な生徒が育つ」ハズと信じていたころの自分だ。許してくれ!
今は...言えないなぁ。
社会全体が、親さえもSNSの恩恵に与ってしまっているのが現実なのだから。
その中にあってスマホもPCも...やがては親も家も無くなった後に残るのが本当の自分の実力なんだよ...と教えている。
塾生がやがて数年後に社会へ出ていくことを考える。
まるで子羊を猛獣のいる野原へ放すような...そんな限りない不安を感じざるを得ない。
日本人に生まれたのだ。
国語の力はすべてを読み解く' Key 'と心得よ。
その上に他教科を学ぶなら飛躍的な学力の向上があるだろう。
英語においてはなおさらだ...
たとえどんなに英語(外国語のすべて)を勉強しようとも限界があることをご存じだろうか?それは実際に存在する。
教員も語学教材の会社も絶対に言わない...教育上の配慮から、会社は利潤追求のゆえに言えないのである。
その限界とは「英語はどれほど勉強しようと、その人の国語力で止まる」という事実だ。
言語学的に言っても当然の結果である。
日本語を処理する同じ「脳」で英語を処理するのだから...
世の中のすべての流れに逆行してでもいいから、敢えて言おう。
「よい本を読む」べし。
これを実行するかしないかで将来はかなり違ってくる。
移ろいゆくもののなかに本当の幸福や平和はない....
極論すれば...獣のように叫ぶ日本語を使うことをヨシとする道は滅びの道でもある。
家庭は最後の砦であろう。