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進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室     の日記

なぜ....

2023.09.01

9月1日は日本全国で「防災訓練の日」である。

では何故、どうして9月1日なのか....それはちょうど100年前に起きた「関東大震災」が9月1日のお昼ごろだったからだ。

1923年は邦歴で大正12年にあたる。

こういう場面で公的に発表された事実や数字をならべても仕方がない。そんなことはnetで調べればわかるのであまり意味がないのではないか。

西川....わが祖先にとってこの「震災.....祖父母や母は事後そう呼んでいた」はどんな意味を持っていたか。どれほどの人的損害が生じたか。

私も子供のころから聞かされた.....関東大震災。

まず第一に「東京はほぼ全滅だった」ということだった。
そして、その被害は地震による建物の倒壊...「圧死」はむしろ少なく、地震で起きた火災による「焼死」がそのほとんどだったと聞いた。

これは、運命的な時間によるのだが.....大震災が起きたのが11:58。ほぼ昼時である。

祖母に直接聞いたことを思い出す「あれはね...朝から何度も余震があって、そのたびに避難していたんだよ。そしたら しばらく揺れが来なくなったんだよ...それで安心してお昼ご飯の支度をしていた...そうしたら足元が崩れるような大地震だった」

大正12年には西川のご先祖は当時の東京に13人いたそうだ.....がこの震災でそのうち11人が一瞬で亡くなった。

生き残った二人のうち一人が「祖母」だったので、私が存在する。

一瞬で...と言うのには訳がある。

浅草にあった陸軍の被服廠でみな亡くなった。聞きなれない「被服廠」というのは軍の制服を作っていた制服工場であった。当時大正時代の民家のほとんどが木造だったが、被服廠は鉄筋コンクリート造りの立派な建造物だった。

その故に下町の火事に追われた被災者たちが逃げ込んだ。長い間「何故、大被害になったのにみな被服廠へ逃げ込んだのか?」という疑問を私は持っていた。それは震災の話を初めて聞いた小学生の1年生の時からだ。

「もしそんなところにみんなで逃げ込まずに逃げれば助かった人間もいただろうに...」と思ったことを思い出す。

祖父母の浅草被服廠の話を中学にはいって直ぐのころに海軍にいた伯父に訊いてみた。

当時はこのような疑問も単純には訊けない雰囲気がまだあった...要するにたくさんの人間が結果としてなくなっているのだ。皆さんにこのへんの難しく微妙な親族との精神の拮抗状態がわかっていただけるだろうか...?

オマエみたいな子供が軽々しく口にすることじゃないぞ!...ということだ。

でもその時に伯父はまっすぐに私の眼を見て言った。

「そのくらい軍を信頼していたからだよ」

民間の建物は焼け落ちても軍のたてものだから大丈夫だ....

関東大震災で当時の東京はほぼ全滅だったのだから、被服廠に逃げ込んで火災崩壊で亡くなっていたか或いは他所で焼死したか...いまとなってはどちらが良かったのか誰にもわからない。

ただただ祖母が祖父と結婚して今の港区高輪にいたことが唯一の幸運だったのかもしれない。高輪は品川の方向からグッと小高い丘になっていて、高野山を始め各国の公使館や皇族のお屋敷が多くその屋敷森が緩衝地帯になったのかもしれない....祖父母は無事だった。

更に祖母と母から聞いた話がある。

祖母の父(私の曽祖父)は明治時代の警察官だった。江戸のサムライが明治時代には「士族」であり警察官や軍人になるものが多かったそうであるが、曽祖父も真っ白な詰襟の制服に腰にsaber(サーベル)をさげた東京警視庁の巡査だった。

震災から数日たったある日、祖母が高輪の自宅に戻ると玄関先に全身黒こげのオジイサンが座り込んでいるのが見えた。どこのオジイサンだろう火傷しているのか可哀そうに..手当てしてあげようと近づくと....「ハナ...(祖母の名)」と言った。警視庁も火災で崩壊...曽祖父は記憶を頼りに高輪まで焼け跡を歩いて来たのだった。

それが100年前の1923年の関東大震災だった。

私が令和の御代に生きているのも奇跡中の奇跡だろうと思う。

ご先祖に感謝。
神に感謝。


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