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ラーゲリ...伯父の場合

2023.01.15

ソ連機械化部隊に降伏した伯父の部隊は初め200名いたそうであるが結局生きて日本の地を踏むことができたのは伯父と部隊長の2人だけだった。198名はシベリアの凍てついた大地に埋葬された。なんとも悲しみの極みである。

終戦が夏だったから兵たちは軍から夏服しか支給されていないまま秋になり冬となった。
伯父の収容されたのはハバロフスクのラーゲリだった。ここで多くの日本兵が強制労働の毎日を送っていた。シベリア鉄道の建設保線作業とタイガの森林伐採が課せられた労働だった。



伯父から聞いた言葉でしっかり覚えているのはラーゲリでの食事内容だ。

伯父は幼い私に語った

「1日に小麦粉を大さじに3杯。あと塩(岩塩)だけだよ。これを湯のみに入れてお湯で溶かして飲むんだ。本当にそれだけだった...」

「スプーンもなかったからね、できるだけ平たい鉄くずを鉄道の線路に置いて隠れるんだ。列車が通った後に急いで拾いに行く。すると先が平たくなっていてスプーンに使えたよ...」私が覚えているのは伯父のこの言葉だけである。

仲間の戦友たちは疲労と栄養失調でばたばた倒れて行ったそうだが、一回倒れると劣悪な環境で見る間に亡くなって行った。「飢餓」「重労働」「酷寒」の3つがラーゲリの元日本兵の命を奪っていったと言ってよいと思う。

ソ連軍に降伏しシベリアのラーゲリに抑留された人数にはのちに大学の歴史学科に入って母校の図書館で調べて驚いた。日本軍人が50万人、満洲開拓団の民間人が10万人...あわせて約60万人が強制収容所に抑留され終戦後何年たっても帰国できずに奴隷的労働をさせられていたこと。さらにはその10%にあたる6万人が日本に帰る日を待ちながら大陸の土となったこと。この驚愕の事実は私の伯父の話と重なって今もなお心の底に深い沼のように重たく沈み込んでいる。

同じ戦時捕虜でも太平洋戦域で米軍と交戦し捕虜になった日本兵は終戦後直ちに帰国復員できたのに、なぜソ連の捕虜は終戦後数年間もラーゲリの中で苦しみ死んでいかなければならなかったか....

ソ連は先の大戦でヨーロッパではナチス・ドイツと闘い多くの若い兵士を失った。凍てついた国土は広く多くの労働力を必要としていたのだった。そのため極東での戦闘で捕虜にした日本兵(ヤポンスキー)を喉から手が出るほど欲しかったのだ。

だからポツダム宣言を受諾して終戦となっているのに日本兵をダモイ(帰国)させるには特赦が必要だと言いだした。

「日本兵はみな戦犯なのだから民間人とは違う....戦犯を釈放するには特別な許可(特赦)が必要である」「そのためにはソ連と日本の間に平和条約を結ばなければならない」

ここで言う平和条約とは「国境線の確定」のこと。それは現状の追認行為である。終戦の間際にソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告。あっと言う間に中国の東北地方(満洲)と北海道の北にある千島列島と樺太に侵攻・占領していたから、これらをすべてソ連に差し出せ...という意味であった。

「50万人の日本兵を帰してほしければ北海道以北の北方領土すべてをソ連領と認めろ」という内容だった。どう考えたって卑劣な交換条約だ。

自分たちの命はどうでもいいから千島・樺太をソ連にわたすな..と言うのがラーゲリにとらえられている日本兵たちの心の叫びであったが、日本政府は長い長い逡巡の果てに千島列島・樺太を棄てたのだった。このあたりもまったくTVをはじめとするメディアが報道しないからどうかしている。

....というわけで伯父がダモイとなり引き上げ船に乗って敦賀の港に降り立ち数日かけて品川駅に降り立ったのは私が生れる少し前だった。

伯父を迎えに行った祖父は駅で骨と皮にやせ細った伯父を見つけた。無言で駆け寄り、強く抱きしめていつまでも泣いていたそうである。

この関東軍だった伯父と私は誕生日と血液型が同じ。昔から不思議でしかたない。

伯父は東京麻布にある天現寺で祖父母と共に安らかに眠っている。

R.I.P.






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