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ラーゲリ(Лагерь)~シベリア抑留 2

2023.01.14


私の伯父(西川の長兄)が帰国したのは実のところ私が生れる数年前だった。帰国と書いたが当時は戦地から日本へ帰ってくることを「復員」と言った。初めに引用した手記の方の伯父上は亡くなられていたそうであるが、復員しMT銀行へ入行しその後異例の出世昇任を遂げた伯父を私ははっきりと覚えている。伯父は私が3歳の時に体調を崩して虎ノ門病院に入院。検査で脳腫瘍とわかり数度にわたる手術を受けたが当時の医学水準では脳の外科手術に限界があり38歳の若さで妻と男の子2人を残して夭折した。子供の一人は現在大学病院の脳外科医になっている。

私が覚えている伯父はこのオペの合間に東京高輪の実家で静養していたときの姿だ。2階の階段を上がった踊り場で浴衣を着てロッキングチェアでくつろいでいたっけ。伯父は妹の子である私に色々話しかけてくれたが言葉が難しくて大部分は理解できなかった。その断片でも脳裏にある自分は幸せだと思う。伯父は心から私を可愛がってくれた。

伯父は慶応大経済学部卒で祖父母の期待を一身に集めた長男であったが、旧陸軍に入隊。
関東軍の甲種幹部候補生であった。この辺りの用語は興味のある方はネット検索していただきたい。

終戦間際に当時のソ連は一方的に「日ソ不可侵条約」を破棄して、すべての日本領・日本の植民地へ侵入を始めた。ソ連と満洲の国境沿いに関東軍の守備隊がいたけれども、当時のソ連戦車T-34を多数投入してこの左右にppsh短機関銃を装備した歩兵を従えて突入してくる戦法に苦戦したそうである。

当時の関東軍は米軍との戦闘のため太平洋へ、またイギリス・オランダ・オーストラリア軍に対抗するために南方へその精鋭部隊を引き抜かれて(これを抽出という)いたので対戦車砲など重火器の割り当ても少なく兵力としては何分の一かまで弱体化していたからひとたまりもなかった。

前線では守備隊が次々に撃破されて行く中での終戦を迎えた.....1945(昭和20)年8月15日の暑い夏の日のことだ。

停戦命令。やがてソ連軍の進駐。日本軍は武装解除され降伏。伯父の部隊もppshを持ったソ連兵に取り囲まれて日本軍戦犯収容所に移動を命じられた。この大陸に設けられた収容所をラーゲリと言いロシア語でЛагерьと書く。

以下は伯父から聞いて断片的に覚えている内容のほか、祖父母やたの伯父たちと母から繰り返し話された長兄のM伯父のラーゲリでの話である。

.....続く


移動中の日本兵


























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