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進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室     の日記

按針祭とは

2022.08.10

今日は按針祭。年に一度、コロナで被害を受ける数年前まで伊東の人口の数倍の観光客でにぎわうのが毎年8月10日だった。3年間自粛していたが今年から縮小版で再開するとのこと。塾生の中にはボーイスカウトで市内の行進、観光会館での式典に参加する生徒もいる。大いに頑張ってほしい。

そもそも按針てなんだ?何者だろう?....と疑問を持ったほうが世の中面白い。

按針(あんじん)という言葉自体は中国語に由来するらしい。英語ではpilotであり日本語の訳語では「水先案内人」という。

海図を見ながら船の位置をいつも把握して、航路に間違いはないか、寄港する港の出入りにあたっては最大限の知識と経験から適切な助言を与え船の安全航海、特に遠洋航海には欠かせない役割を果たすのが水先案内人・pilot・按針である。

伊東で今日祝うのは数知れず存在した按針の中でも日本の歴史に刻まれる大きな働きをした「三浦按針」である。

実のところ彼は英国(イギリス)人であった。

あまり年号や日付を正確にすべてを書くと歴史書のようで面白くないと自分でも思う。
あまりハズレない程度の時代認識で述べてみたい。

1600年当時...今から400年くらい前はそれまでのスペイン・ポルトガルにかわって国力をつけたイギリス・オランダがアジアに進出しようとしていた。

イギリスのほうがオランダより先に世界の海に乗りだしていたから、危険な海域の知識においても操船術+航海術(Navigation)においても優れていた。このゆえに、遠洋航海のオランダ船には必ず英国人の水先案内人を乗せるのが当時は安全に帰港するための要件であり海の慣習とされていた。

三浦按針はイギリス人で英名をWilliam Adams(ウィリアム・アダムス)という。
...以下便宜上アダムスとする。

アダムスは若くしてイギリスの造船所で働いた。そして造船術・航海術・天文学(航海のためには必須)を身に着けた。そして、オランダのロッテルダム港から東洋探検隊船団のうちの一隻に英国人pilot(按針)として乗り組んだのだった。

数隻でオランダの母港を出港したが途中の暴風雨・台風により、また海賊の難によりアダムスの乗り組んだ探検船以外はことごとく海の藻屑となった。

アダムスの乗船したその船名は「リーフデ号」(オランダ語で「自由」の意味)と言う。

リーフデ号は度重なる嵐と海賊の難を乗り越えたものの、生き残りの船員すべてが食料..殊に新鮮な野菜の不足による壊血病、飲み水がないゆえの脱水症状となり瀕死の状態のままフィリピン沖から黒潮にのって日本の九州(当時の豊後の国)に漂着したのだった。

実はここまでの英文の資料は40年も前になるが翻訳したことがあった。

当時私が勤務していた英語学校に伊東市から翻訳の依頼があって、アメリカ人教員と私が協力して土日・祭日に時間を割いて頑張った。数ページを訳したところで何故か伊東市からstopがかかった。

理由はいまでもわからないが「青い目のサムライ」という書名で出版されている。

ここから先は翻訳していないので記憶にないが、漂着した異国船の報告が徳川家康のもとに届いたらしい....もっとも1600(関ヶに原の合戦)年の前なのでまだ江戸時代にはなっていない。

家康はアダムスを召喚して質問(尋問?)したところ、その知識が「航海・造船・天文・
地理・世界情勢」に及ぶ膨大なものであることに驚嘆した。それを見抜いた家康の定見あることにも大いに評価すべきだろう。

ただ、その時の通辞(通訳)に立ったのはイエズス会士だった。

アダムスが日本に上陸する半世紀50年もまえから日本はザビエルに始まるイエズス会の伝道宣教地になっていた。当然のごとく在日の西洋人は宣教師のイスパニア(スペイン)かポルトガル人だった。

よく誤解されるがイエズス会とはローマカトリックの組織の一部であり別の宗教ではない。これを中学・高校の歴史教科書で名称だけ学んでも教員の説明がなければ生徒は理解できない。

ご存じのようにヨーロッパでは宗教改革があった。カトリック教会は大いに反省し、ヨーロッパで失った信徒の数と教会の名誉を新たにアジアへの宣教によって回復しようとした。そしてイグナチウス・ロヨラによっておりしも8月15日に始められたのがイエズス会である。

失われた教会の勢力を新伝道地で盛り返そうとするのだからイエズス会も当時のヨーロッパで第一級の人物を厳選して送りだした。カトリックの司祭一人を育てるのに12年かかると言われるが、その上に病気・事故・殉教による死を受け入れる誓いを立てた者だけがアジアに向かう貿易船に乗り組んだのだった。

ここで考えてもみよう....

その思いで50年間日本宣教していたカトリックの司祭宣教師の前に、宗教改革の宿敵オランダ・イギリスの難破船が漂着した。乗組員はアダムス以外は全員オランダ人だ。

日本宣教のために是非とも信頼を取り付けておかなければならない家康がその中の一人の英国人に強い興味を持ち....しかも通訳として同席せよと言う。

宗教上、国家間も不幸にして敵対している立場の人間同士が地の果てにおいて出会うとは...運命の悪戯か歴史の必然なのか。

大戦中の日米それぞれの軍人が中立国で偶然に出会ってしまったようなものか。

アダムスは按針であり航海士だったから家康に尋ねられるまま「航海術・天文学・造船術」について知識を振り絞って答えた。

GPSもナビもない...当時からついこの間まで航海は自分の船が地球上のどこを航走しているかを知るためにセクスタント(六分儀)を使って星の位置を毎夜測り「緯度・経度」を計算しながら大洋を渡った。陸上の物標が見えている沖合で使う沿岸航法は大洋の真ん中では役に立たない。

歴史に詳しいかたは疑問に思われるだろうが、鎖国と禁教令は江戸時代の初期にはまだ発令されていない。それどころか家康は信頼できる海の商人たちには「朱印状」を与えて貿易を奨励していたくらいだ。

そのためにも家康はアダムスの知識と技術...わけてもその造船技師としての「船を作るワザ」に注目した。

東南アジアの各地に進出した日本人町がすでに存在したが、信長・秀吉の安土桃山時代に始まった南蛮貿易と東南アジア貿易は50年を過ぎていた。なんでもそうだが、航海術とか実際にフネを造る造船術は座学では学べない。日々の海上での実習がないとどんどん低下しすたれてしまう。

家康はこの点を憂慮したのではないか....

切り札は、オランダのロッテルダムから日本までの万里の波頭を乗り越えて生き残ったアダムスだ。

いかなる優れた研究理論よりも...偶然でも奇跡でもよい「生きた実例」は国をも動かす。
歴史とはそういうものだ。

家康はアダムスを初の外国人(西洋人のの「直参旗本」とした。これは単なる家臣ではない。征夷大将軍たる徳川家康に直接会って話ができる最高位の家臣であることの意味だ。

直参旗本となったアダムスに家康は「フネを造れ」と命じた。そのフネとは遠洋航海に耐えうる「洋式帆船」だった。

アダムスはこれ以前に家康から直参旗本にふさわしく所領を賜った。それは今の横須賀周辺の三浦の地であった。そのゆえにアダムスは「三浦按針」の日本名で呼ばれることとなる。確か同時に土地の三浦氏の姫を妻としたとの記述があったように思うが、今史料を見ずに記憶だけを頼りに書いているので確信はない。

アダムスは家康の造船命令を実行すべく各地を探索した。

それは当時の造船技術から考えて「良質の木材」「船渠(ドック)」「優秀な船大工」の3つがそろうか。そして竣工後には海に浮かべるのだからロケーションとしては「港」か「河川の河口」ということになる。

アダムスが選んだのは伊東だった。伊東の中心部を流れる松川。源流は天城。天城には豊富な木材がある。眼前には相模湾が広がる....

アダムスはここ松川の河口...現在の渚橋の北側の河岸を掘り船渠(ドック)を準備した。
そのドックの中でアダムスは(確信は持てないがおそらく)オランダ語の日本人通訳を介して日本人船大工を指揮して遂に一隻のフネを完成した。

このフネこそ日本初の西洋式帆船「サン・ヴェナ・ヴェンツーラ」号であった。なお、船名はアダムスが命名した。船首にはギリシア神話の神を思わせる像が取り付けてある。

不勉強のゆえに申し訳ないが「サン・ヴェナ・ヴェンツーラ」とは確か中世のキリスト教神学者の名ではなかったか。

現在この船の...20分の1だったかな、その模型が伊東市役所1階に展示されている。

実際にこの船は役立った。

ちょうどこのころにノビスパニア(メキシコ)の外交使節が家康の元を訪れていたが、その帰途に暴風雨に会い難破遭難してしまった。遭難した海域が驚くことに千葉県外房の御宿沖だった。

御宿は今までにも書いたが祖父の生家があり、江戸時代以前から西川の先祖が住んでいた地だ。今でも末裔の縁者が住む。

外交使節は家康の許しを得てアダムスの建造した「サン・ヴェナ・ヴェンツーラ」号に乗り無事に故国へ帰ることができた。

これは紛れもない歴史上の事実である。400年も前のことだがメキシコは日本に感謝している。

今日の按針祭はこれらのすべてが英国人三浦按針...William Adamsの決断と勇気にもとづく生涯がオランダ・イギリス・メキシコの3か国と日本に残した歴史上の偉業を顕彰する日である。

余談であるが、アダムスは英国人であり英国国教会(Church of England)に誕生の記録と洗礼の記録が保存されている。

伊東には三浦按針を顕彰し史料を保存する「按針会」があり、かつて会長の牧野さんにアダムスの「誕生と洗礼の記録」のcopyを見せていただいたことがあった。

何故かわからないが、私も英国国教会の流れをくむ日本聖公会の信徒の一人だ。
伊東の松川河口にかかる渚橋にはアダムスの彫像がある。毎年アダムスの生誕を記念して像のまえで伊豆マリア教会(Anglican Church)司祭の司式による記念式が行われる。

私は人間一人の決意決断と筋の通った生き方が400年を経た今、これほどまで語り継がれ顕彰され国際親善につながった例を他に知らない。

伊東に来て50年になるがアダムスと友達になれたような気がする。








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