進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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ほめたらダメになる...
2022.07.16
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1990年ごろにはやった教育法に「叱らずほめる」と言うのがあった。今もその延長上に少なくとも影響が根強く残っている。
その要旨は
叱れば子供は委縮してその時だけいうことを聞くが本心からわかっているのではない。それより子供のやる気をなくさないようにあらゆる機会チャンスごとに「ほめる」ほうがよい結果を生む....というものだ。
これを正しいと信じて実行している大学教育学部の教授・教員もいるし、その門下生の小中高校の学校教員も多い。
結果はどんな子が育ったか?
「ほめられる」のがあたりまえ。
「叱られ...注意される」とムカつく。
大学ではこういう教育法で育った学生が具体例となっている。
大学の講義(授業ではない)に遅刻して来た学生が堂々と席に座るのを見て教員が言う。
教員「講義は一時間半(90分)。10分以上の遅刻は欠席扱いだよ」
学生「僕は授業料と生活費のためにバイトしてるんです。バイトが長引いたからこれでも
全力で急いできたんですョ!」
僕は正しいんだ!
高いところから見下し視線でモノを言うんじゃない!
彼は満面に怒りと不満をたぎらせている....あたかも爆発寸前の火山のようだ。
「自分は一生懸命にこれ以上できないくらいに頑張っているのに、なぜそれを認めてくれないのか?ほめてくれよ!決して自分のためだけじゃない...アンタの大学に学費を払うためなんだよ!」
これが彼の心理。
ほめられることしか知らず、自分を思って注意し叱る相手の心や立場なんて全く理解せずわかろうともしない。まして感謝などできるはずもない。
権利を主張し...義務を免れる....ことが賢いのか?
いつからこんな日本になったんだろう?
これからの日本をしょって立つ若者がこのようでは日本の未来は暗い。
端的にいうなら「ほめる教育」は「ガマンできない、自己主張の強い」子供を肯定する。
何かの結果を出すために子供の反発心を封じ込んでしまう教育法だ。結果だ出せれば人は黙る....親も教員もこのほうが心理的にズッと楽だ。自分の子...或いは生徒と摩擦なく友達感覚で過ごせる。
世の流れに気が付かないうちに同調してはいないだろうか。
たとえ厳しくても...その時には怒りや恨みが生じても、子供のために自分の信じることを語るのが本当の愛情だと考える。
いまはいい.....でも10年後20年後にその子、その生徒がどうなっているのか。
あなたが親であれば、考えたくはないが自分がやがていなくなったあとわが子がどうなるのか.....言葉にしなくても子を思う親ならそう考えているはずだ。
私も2人の男の子を育てた親だから痛いほどわかる。
大学の教職課程で学ぶ教育法は「児童・生徒にいかに教育の成果をだすか」そのために必要な「人格形成」には何が必要か?という....なんというか理想とする子供の教育のためのmethodである。
人類の歴史において...究極の人類存続のために必要なのは「文字言語によって残された過去の研究・データ」をいかにして次の世代を引き継ぐ子供たちに伝えるか...が最重要課題だった。
今も。
それが教育なのだ。
これが個人において認識されないと....言葉が過激だが...不幸が起きる。
「明日が期末テスト...でも家族の繋がりが大事だからみんなで焼肉・牛タンを食べに行こう...」と言うお父さん。嬉しく盛り上がる家族...?
これが理想の家族なら「勉強はもうあきらめたほうがイイだろう」
人生での優先を誤るとトンデモない結果になる。
この場合な「でもオレは自分だけ自宅に残って勉強するよ...」それが当たり前とするのが当然の覚悟だろうと思う。
ラクをしながら良い結果だけは欲しい....それは身の程を知らない贅沢だ。何か今の憲法そのもののような気がするが考えすぎだろうか。 悪魔が笑う。
今...ヤル気になればいい。結果が出せればいい...という摩擦のない大衆迎合型の「ほめる教育」は叱らない教育となって一世を風靡したけれど、多くの場合において自己主張は上手だけれど責任を他者に転嫁することもまた優れて強烈な若者たちを生んだのではなかったか。
「ほめる教育」はその結果、実社会に出てしまった若者の現実との乖離や摩擦..さらには現場での苦しみに責任を負ってはくれない。
目の前にたくさんの「あなたにとってよりラクな方法」を提示しながら...選択の結果につての責任は知りません。それも選択したあなたの自己責任ですよ.....
というのが「ほめる教育」の根底にある精神だ。
こんな無責任な指導があるだろうか。
ほめて...今がよくても、あなたはその子の人生の彼方を考えているのだろうか。