進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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実体験なきは...神話
2022.06.08
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今の日本は神話と現実のはざまにあるようだ。
神話とは戦前と戦時中を生き抜いた日本人の命がけの実体験。
現実とは戦後生まれの日本を生きる今の日本人だ。
私の父・伯父・叔父・親戚の男子の全員が志願か応召かの別はあっても陸海軍に従軍した。銃後の祖母や母たちも本土にあってよく命を長らえたと思う。
その体験者たちも随分少なくなった。母を3月に亡くしてより一層その思いを強めた。
太平洋戦争の終戦から今年で77年がたつ。もうみなさん90歳以上の方たちばかりだろう。
本当に生き残って戦後の日本の復興のために尽くしてくださった方々が、櫛の歯がかけるように亡くなっていく....
それは貴重な戦前と戦時中の実体験を持つ日本人がいなくなりつつあることを意味する。
では「実体験」とは何だろう?
人間が個々人として体験した事実である。
英語でも...No one can deny the fact.と言う。誰が何と言おうと事実は事実で個人の体験した事実は国家権力をもってしても否定できない。
私は西川の家に生まれて、それこそイヤと言うほどこの実体験の話を聞いて育った。
それは大きく分けて、祖父母の体験した大正時代の「関東大震災」の話・太平洋戦争が始まった戦時中の話・GHQの支配する終戦後の話の3つの区分ができる。
毎年、9月の1日になると全国で防災訓練が行われるのは何故か?
それは、この日にあの東京を壊滅させた関東大震災がおきたからだ。今はそれすら知らないまま訓練だけが行われている。祖母が知ったら気絶するだろう。
以下は祖母から直接何度も聞いた話の要約である。
その日は朝から何度も前触れのような地震が続き、お昼近くなってようやく静かになり皆がホッとした瞬間だったそうだ。とても立っていられないほどの大揺れ..ここかしこで悲鳴が上がり子供は泣き叫び建物はほとんどすべてが見ている前で崩壊していく。
まるで夢か映画を見ているようだったよ...祖母は目に涙を浮かべて話す。
当時の東京にいた西川のご先祖13人のうち11人が一瞬で亡くなったんだから祖母が嘆くのも当然だ。浅草にあった被服廠...軍の制服を製造する施設で頑丈に造られ軍が管理警備をしていた建物は未曽有の大災害で唯一民間人を保護してくれる場所だった。当時、東京浅草の本所にいたご先祖はここに多くの避難民とともに逃げ込み軍に保護されたのだった。ところが倒壊した建物から起きた大火災で東京中が火の海になった...
いまでいう火災旋風が起きた。急速な火災で生じた上昇気流で「火の塊」が四方八方に飛んでいくのである。空中をだ...
この火の塊が被服廠にも無数に飛んでいき最高度の強度設計された軍の建造物も多くの避難民ととも一気に瓦解したのだった。そのなかに私が仏壇の戒名でしか知らないご先祖さまたちがいた。
祖母の父親は多くの士族が選んだように明治時代からの警察官だった。白い巡査の制服に身をつつみ口ひげ。腰にはサーベルを下げている。廃刀令のあと「刀」を許されたのは軍人の士官と警察官だけだった。
この祖母の父親は...毎朝警視庁に出仕していたが、朝から続く地震に動揺する人々の間を威厳に満ちた警察官が巡視する姿を見るだけでみな安心したという。
祖母の父親だから私から見たら何と呼べばよいのだろう...曾祖父だろうか。
曾祖父は地震と火災で壊滅した浅草から、祖母が嫁いでいた港区の高輪の家まで瓦礫の中を2日間飲まず食わずで歩き続けてたどり着いたと言う。
震災から2日目の朝、祖母が何気なく家の外を見ると汚れた白い詰襟を着た老人が何故か底の抜けたやかんを持って立っていたそうである。
その老人は祖母を見つけると「ハナ......」(祖母の名)と言ったそうである。
そのあと曾祖父が高輪の家でいつまで過ごしたのか...祖母の話はここで終わっているのでわからない。
これらは神話だろう。
誰も検証しようとはしない....でも個人にとって絶対に忘れられない事実である。
今回は関東大震災からの話