進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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バッテリー上がり...とラーゲリ
2017.10.19
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昨夜遅くに義弟から「バイク(日本語の意味のほう)」のエンジンがかからなくなって困ってます....との連絡が入る。この日本語の意味はできるだけ早く修理できないかと言う意味だから日の出とともに行ってみた。
まったくセル(スターターモーター)が回らないとのことだったので「症状からみると5Aのヒューズが切れたかな」と思った。
現場についてみると秋の長雨のなかに苦難のバイクが置いてある。
キーを差し込んでONにするとかすかにindicator lightが点灯。ウーン...電気は来てるなあ。じやぁ..fusible linkではないゾ....
思わず、走馬灯のごとく高校2年の冬の夕方の事件というか忘れられない悲劇を思い出す。こういうのがPTSDと言うんだろう。
伊東の大室山の向こうには天城連山の端が伸びてきている。これが「矢筈(やはず)山」という急峻な全体が崖でできているような山である。
当時の私は50ccの2ストバイクで伊豆の山と海を走りまわっていた。矢筈山の麓には透き通る湧き水が流れ山葵田(ワサビの栽培)が広がってたから、35mmカメラを持ってよく通ったものだった。
その日も日が暮れだした2月の夕方。天城おろしが強くなり寒いなんてものではない...さあ家に帰るかな、と思ってバイクのエンジンをかけようとした....ウォーンウォーン
あれ...かからないぞ。そうこうするうちにだんだんセルモーターの音が小さくなっていくではないか。
うわっ。バッテリー上がりとはこのことだったのか!
新しい世界の発見には苦痛と犠牲がともなう....なんて言っている場合ではない。あたりはドンドン暗くなる。ガソリンスタンドも修理工場もない。携帯・スマホもない。公衆電話もない。人もいない。お金もない。ああ...地獄だ。
もう自分の力で家まで帰るしかない。
泣き出しそうな気持で重たいバイクを押しながら大室山の周回道路までの上りのきつい山道をひたすら目指す....ウーン...まるでインパール作戦のようだ。
そのうち疲れで目もかすむころにようやく大室山の麓に出た。強風の冬の夜空にはオリオン座が綺麗だ....
あとはギアをN(ニュートラル)に入れて伊東の街中までひたすら加速しながら下った。
あのころは今のスクーターのようなATバイクは少なく、小さいエンジンの力を限界まで出し切るためにマニュアルミッションの5段変速のバイクに人気があったんだなあと回想。
市内のバイク屋にたどり着いた時には嬉しかった。砂漠でオアシス...の思いである。
そしてあの頃のバイク屋には「おそろしいオヤジさん」がいたものだ。
こどものころから現場で修行して「二輪整備士」の資格を苦労して取った、たたき上げの職人さんが経営する町の整備工場である。
どんな難しい修理もこなす。無口。いつも黙っていて口数が極端に少ない。気に入らない客は怒らせてでも追い返す。ある意味、経営なんてどうでもイイ。
もうあんな店もないなぁ....頼んで整備してもらうなんて信じられるだろうか?
その「オヤジさん」はある瞬間から私を子どもか孫のように接してくれるようになった.....
それはあの戦争でありソ連だった。ロシア語のラーゲリであったかもしれない。
オヤジさんは戦時中に日本軍の車両整備の要員として大陸のハバロフスクにいたそうだ。そして終戦とともにソ連の捕虜になった。しかし、整備の腕をかわれてソ連軍のオートバイ・トラック・T34(戦車)の整備をするうちにソ連軍の信用も増したそうだ。
あのラーゲリ(ソ連軍の捕虜収容所)で生き残れたのは自分の整備の力だった..とオヤジさんは話してくれた。
「オレの伯父さんもソ連のラーゲリにいました。ハバロフスクです」
と言った瞬間にオヤジさんの目の色が変わった....
「アンタのオジサンもハバロフスクか...」
「はい。陸軍の士官だったので終戦からずっとダモイ(帰国)させてもらえずオレが生まれる少し前までラーゲリにいました。最後の復員船だったそうです...200人いた部隊は伯父と部隊長の2人のほか全員ラーゲリで亡くなりました」
「そうだったのか....」
オヤジさんの目に涙を見た。
今朝のバッテリー上がりでは、遥か昔の伊東高校2年の冬とバイク屋の頼りになるけれど恐ろしくもあり、あったかい「オヤジさんの目」を思い出したのだった。
私も歳か。