進学セミナー西川塾 城星教室 / 十足教室 の日記
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2つの特攻基地....
2017.08.16
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映画「永遠のゼロ」から世の中の風向きが少し変わったようだ。
それまでは「特攻」とか「ゼロ戦」の2つの言葉は半ばtabooであったとは思われないだろうか。一言踏み込んでいえば、あの太平洋戦争自体がもう触れてはならない世界であって、敢えて意見や心の思いを述べる人間には「右翼」のレッテル(ラベル)が貼られた。
そうなら、身内や顔も知らない先祖があの戦争を戦い、ことによったら戦死している私のような人間はどうすればいいのか?
戦後72年も過ぎて、ようやく機密文書の規制が解けて公開されるようになり当時の国際情勢と史実(歴史上の確認された事実で証明力が高い)が知られるようになったことは慶賀である。
少し詳細な説明になるがご辛抱いただきたい。
日本には米軍にあるような「空軍」はかつての戦争では存在しなかった。旧軍では海軍の作戦で飛ぶ「海軍航空隊」と同じく陸軍の作戦に呼応する「陸軍航空隊」があった。したがって独自の作戦で戦争できる「空軍」なしで日本は戦ったのである。まずはこの点を明らかにしたい。
特攻は空と海の両面から行われた。空からは飛行機に爆弾を装着して敵艦に体当たり、自爆して損傷を与えるもの。海はさらに海中では魚雷に一人乗りで操縦できる改装を施した回天。水上では小型のモーターボートの船首部分に爆弾を載せて敵艦に突っ込む震洋があった。
この戦争末期の特攻の是非についてはまた別のblogに譲る。
航空特攻は沖縄に上陸せんとする米軍にたいして南九州の基地から離陸した日本軍機によるものであった。これは鹿児島の桜島を挟んで2つの大きな半島があるが、海軍は鹿屋(かのや)航空隊から。陸軍機は知覧航空隊から発進して沖縄を目指した。当初は使用機材も新しい戦闘機を使っていたが損耗が激しくなるにつれ、急降下爆撃機や雷撃機...果ては鈍足の練習機まで...伯父の言葉で言えば「飛べる機体は全部」特攻になったそうである。
九州の地図をご覧いただきたい。
そして鹿屋と知覧の位置を探してほしい。
特攻を知ることはここから始まる。
PS:
ちなみに当時の軍用機は「爆撃機(B29や日本の一式陸攻の大型の水平爆撃機+ドーントレスや日本の小型急降下爆撃機)」「雷撃機(魚雷を1本装着して超低空飛行で敵艦を狙う)」「戦闘機(敵の攻撃機を追い払い制空権を確保する。高速機)」に分類される。